坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

恋をしている

友達と2年ぶりに会うことになった。

その友達は、僕と同じ歳の女性なのだが、僕と生き方のペースがとてもよく似ている。
もし仮に世界中の人々を100種類くらいにカテゴライズするとしたら、僕と彼女は、間違いなく同一のカテゴリに属することになるだろう。
そのくらいの、ちょうどいい感じの親近感をお互いに感じあっているような、そんな間柄だ。
いままでも、ちょくちょく会ってご飯したりはしていたのだが、ここ最近は彼女の心の調子がよくなかったことやら、僕自身の私生活が不安定だったことなどが重なり、もうずいぶんと長いこと会っていなかった。

 

 

その日、まずは彼女が行ってみたいと言い出したチョコレートカフェに入ることにして、入り口の行列でずいぶん並んだ。待っている間に気を失いそうになる彼女を励ましながら、僕達はなんとか店内に分け入ることができた。ケーキやワッフルやアイスの上に、お上品にかけられたチョコレートは、ほどよい甘さでとてもおいしかった。
その後もお互い時間があったので、近くにあった商業施設でいろいろな展示物をみたり、楽器店や民族洋品店を冷やかしたり、ボルダリングをやっている人たちをぼんやりと眺めたりしてすごした。

 

 

こんなふうに二人で目的もなくぶらぶらするのは始めてのことだなと思いながら、なんかちょっとこれって、気になる人とデートしてるみたいな気がしてきて、だんだん楽しくなってきた。
まだ付き合っているわけではないけれども、これから付き合おうかどうか迷いながらお互い様子見しているような段階で、でもなんだかやっぱりこの人いいなーと思い始めていて、だんだんと気持ちに弾みがついていきそうな感じ。
この感じは、とても懐かしい。もうすっかり忘れていた感情で、ずいぶんと久しぶりだなと思った。

 

 

このまま彼女と恋に落ちることがもしあったとしても、それはできない。
でも胸がじんわりほんわかしてくるこの感じだけは、いくつになっても僕の心のなかに、そっとひそやかに残しておきたい。そう思っていた。

禍々しいものに惹かれてしまう

セルビアン・フィルム』とか『マーターズ』とか『ムカデ人間』とか、そういう禍々しい雰囲気につつまれた映画が好きだ。

 

 

僕は子供の頃からホラー映画が好きで、人が残酷なかたちで殺されたりする場面が続くような映画を、よくたて続けに観ては喜んでいた。
昔のホラー映画は、「13日の金曜日」とか「悪魔のいけにえ」とか、非常にわかりやすくパターン化されたものが多かったように感じるが、歳をとるにつれて、どんどんストーリーは不条理なものになり、残虐描写はさらに過激化しているように感じる。
観る側も、「なるほどこんどはそうきたかー」と感心しながら、さらに刺激の強い、過激で陰惨な映像を求めるようになってしまう。
そういうことを誰かに話すと、必ず眉をひそめられてしまうのだが、こういった残虐描写のきつい、誰が観ても目を背けたくなるような映像に対して、どうして自分がこんなにも惹きつけられてしまうのだろうか。

 

 

例えば、『セルビアン・フィルム』には、劇場公開時に規制が入りカットされてしまったシーンを加えたUNRATED版というものがあるのだが、劇場公開版とこのUNRATED版を見比べていると、なんとなくおぼろげながらその疑問に対する答えが見えてくる。
作品内の一番コアな箇所で、最もゴア表現のきつい場面があり、その部分には、劇場公開版ではカットされている数秒程度のわずかなシーンがあって、それはほんの些細な役者の動作を映した部分なのだが、明らかに「人間」を「モノ」のように扱っている動作が描写されていて、「ああ、ここまでやってしまうと完全にアウトなのか!」ということに気付かされる。
そこには、人間に生まれつき備わっている理性だとか、モラルだとか、そういったもののボーダーラインが明確に浮かび上がっていて、普段は意識せずに埋もれてしまっているそれらのものが、一挙にあらわになる瞬間に、僕はカタルシスを感じているのだった。

 

 

冒頭に挙げた作品は、一見、過激で残酷なだけの映画だと評されてしまっているきらいがあるが、僕的にはそうではなくて、もっと深い、人間の抱えている基本的な条件みたいなものを、いちばんわかりやすいかたちで描写しているような気がするのだ。

だからこそ、目をそらすことができない。
誰もが目を背けてしまう場面であっても、僕はひたすら凝視しつづける。

 

 

セルビアン・フィルム 完全版 [DVD]

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友達は休んでもいい

最近読んだマンガで、「やめてみた」というコミックエッセイがある。

主人公の女性が、「身の回りのいろんなことをやめてみることでスッキリお悩み解決!」ということで、よくある断捨離系のお話なのかなと、あまり期待せずに読んでいたら、思わずはっとさせられる話題がでてきた。

 

 

日頃の友達付き合いについて主人公が悩んでいる場面が出てくるのだが、友人のちょっとした行動が不満で、なんだかもやもやするなーとぼやいていたところ、主人公の旦那さんが、「じゃあその友達とのお付き合いをしばらくお休みしてみたら?」というふうに提案するのである。
この旦那さんも、学生時代は仲のよかった友達が、お互い社会人になって環境が変わったことでだんだんとぎくしゃくするようになり、思い切って交友関係を断ってみたら、すっきりしてお互い楽になったと言う話を打ち明ける。ところが、その友達と最近になって偶然再会することがあり、一緒に飲みに行ってみると、また昔のように話がよく噛みあうようになっていて、それからまた関係が復活したそうだ。
この話をした旦那さんは主人公に対して、「友達関係をお休みするのって、そんなに悪いことじゃないと思うんだけどなー」と、その行為を肯定して、おすすめするのだ。

 

 

僕もその話を読んでいて、そういえば、いつの頃からか話題がなんとなく咬み合わなくなってきて、一緒にいても全然楽しくない友達っているよなーということを思い出した。でも、そういう友達とも無理して付き合っていたりする自分のことも合わせて思い出す。
惰性なんだか義理なんだか、よくわからない感情に引きずられるようにしてずるずるといつまでも。でも、そういうのって、とてもしんどい。
そういう関係は、「断つ」わけではなく、しばらく「お休みする」と考えて、距離を置くようにすればよいのだ。
友人関係を「断つ」となると、ケンカ別れしたような、ネガティブな意味合いが伴うけど、そうではなくて、お互いのことを思い合って、しばらく精神的に距離を置いて離れてみるという選択肢をとることもできるのだ。
友達って、無理にずっと続けている必要はない。たまには休んだりしてもいいし、復旧してもいいし、そのタイミングは自由なのだ。
そのことに気づかせてくれたので、このマンガを読んでよかったと思った。

 

 

 

電子書籍はいつ買えばいいんだろう問題

紙の本を買わなくなった。

 

 

自室の本棚から本が溢れ出し、まるで高層ビル群のように床に積み上がった本の束を見上げるたびに、「もう二度と紙の本は買わない」という決意を固くさせられる。
そんなこんなでここ2~3年ほどは、よほどのことがない限り電子書籍を買うようにしている。

 

 

そこで浮上するのが、タイトルに掲げた「電子書籍はいつ買えばいいんだろう問題」である。
電子書籍って、結構頻繁にセールをやっているので、一体いつ買えば一番オトクなのかが非常にわかりづらくなっていて、結局いつまでたっても買わないことが多いのだ。
例えば、読みたい小説を見つけても、それが角川から出ていたりすると、次の角川半額セールまで買うのを待っておこうという気になってしまい、そしていざセールが始まっても、お目当ての小説は割引対象外になっていたりして、なんか悔しいので結局買わずに、そのうちその小説の存在自体を失念してしまうという機会損失が起こってしまう。
電子書籍が普及していなかった時代には、こんなことは起こらなかったのにと思うと、なんだかとてももったいないことをしているような気がする。
その背景には、電子書籍を売る側にも買う側にも、「所詮はデータだ」という気持ちがあるように思う。
書籍といっても所詮はデータなので、売る側は定期的に半額セールなどの大幅値引きをやることで客寄せしやすいし、その結果、買う側にも、紙の本と同じ値段で買うなんてばかげているという意識が植え付けられてしまうのだ。
そんなこと深く気にせずに、読みたい本が現れたタイミングで買えばいいのだが、なんか気になってしまうのである。
自分でもせこいとは思うのだが、なかなか定価で買うことができない。

 

 

いまこれを書いていて思いついたのだが、同じような問題に、「Netflixにはいつ加入すればいいんだろう問題」がある。
Netflixは入会して最初の一ヶ月は無料なのだが、一ヶ月もあると観たかったドラマや映画はあらかた観尽くしてしまい、観るものがない状態になってしまう。で、そこで退会してしまうと、料金が全く発生せずに終了する。
そしてそれから一年くらいたつとNetflixから「もう一度、一ヶ月の無料体験をしませんか?」という案内がくるので、ちょっと覗いてみるかーと、再入会することになる。ただ、また一ヶ月もあると、自分の興味のあるコンテンツは大体観尽くしてしまうので、やっぱり退会して料金が発生しない。
これいつまでたっても課金されないような気がしてきて、心配になってしまう。
自分でもせこいとは思うのだが、なかなか課金することができない。

このブログについて

今年の春くらいからこのブログを始めたのだが、実は僕は、はてなブログ歴はとても長い。ここで始めるよりかなり以前から、別のアカウントで長年やってきていて、おそらく10年くらいは続けていたと思う。

そのブログは、リアルの友人・知人や家族からも見られていて、その人達のことをどうしても意識しすぎてしまって、だんだん書きたいことに制約がかかるようになってしまっていた。
去年くらいから、もっと自由に思ったことや言いたいことを書いていきたいなと思い始め、今年の春に思い切って新しいアカウントを作り、ひっそりと新たにブログを始めることにしたのだ。

 

 

今回、新たなアカウントでブログを始めてみて、なんだか新しい人生を得て、イキイキとしている自分を感じている。
ネット上で同じ人格を長年続けていると、どうしてもだんだんと煮詰まってくるものだ。自分としては別のことが言いたいのに、今までのネットでの自分の言動の集大成のようなものが、ああ言えこう言えと直接自分の頭に命令してくるような感覚。もうそういうのが息苦しくて、新アカウントを作ったようなものだった。
ここでは、過去の人間関係や、自分自身からも自由になって、好きなように書きたいことを書いていられる。
そうだ、僕はずっとこの立場を欲していたのだ。

 

 

以前のブログをやっていた時代には、あまり他のはてなブロガーの方と関わることが少なかったので、今回は積極的に他の方達と接する場面を増やしていきたいと思っている。そのためにはどうすればよいのかについて、ここ最近ずっと考えていた。
他の方のブログで、自分が興味を持てそうな内容のものを探したいのだが、そのために「グループ」という機能が用意されていることに気づいた。「2016年にブログを始めた人のグループ」 「40代のグループ」 「SIerでSEやってますグループ」など、自分と共通点がありそうな人たちが集まっていそうなグループに登録して、その中のブログを読むようにしてみた。
そうやって、他の方のブログを読ませていただいて、少しでも心を動かされるような文章に出会った時は、迷わずスターをつけるようにした。また、なにかちょっとでも筆者の方に伝えたい事があれば、気軽にブクマコメントを入れるようにしている。
そうやって、他のブログに対してなにかしらアクションを起こしていると、自然とそこからリアクションが帰ってくるようになってきて、ぼちぼちと自分のエントリにスターやブクマがつくようになり始めた。読者登録数も増えていき、エントリを書くことに張り合いがでるようになってきた。

 

 

それにしても、日々、他の方が書かれたブログを読んでいると、時々ちょっと不思議な気分に陥ってしまうことがある。
楽しい話題ばかりのブログ。何かに絶望しているブログ。その日食べたお菓子についてひたすら書き続けているブログ。
ネットがなかった時代には、他人の人生や日常や考え方に、こんなふうにアクセスすることなんて絶対にできなかったのに、それが今は簡単にできるし、そこを起点にして、ゆるい感じで相互にコミュニケーションが取れるようになっている。
こんな素晴らしい仕組みが整っているということに、今回新しくブログを始めてみて、初めて気がつくことができたと思っている。

たかが、お金

お金とは、なんだろうか。

 


若い頃の僕は、お金とは、自分自身の価値を周りの人々に示すためのツールだと思っていた。
ロールプレイングゲームで経験値を貯めるとレベルが少しづつ上がっていくように、昇給や転職の度に給与明細の支給額が上がっていく。それを目にする度に、なんだか自分が強くなっているような、成長しているような感触を肌で味わっていたものだ。
ところが、ある一定の時期を過ぎると、だんだん給与が上がらなくなってきて、それに伴って自分の成長も止まってしまったように感じることが多くなってきた。
これは会社を通して稼げる金額がいよいよ限界に近づいてきているのではないか、そう感じた僕は、それならば会社の外でお金を稼げばいいんじゃね?と考えるようになった。
今はパソコンとネット環境さえあれば、だれでも気軽に自分でお金儲けを始めることができる時代だ。そう考えた僕は、アフィリエイトや投資でお金儲けをすることに頭を使い始めた。

 


アフィリエイトには色々なやり方があるが、一番理想的なやり方は、スマホやパソコンの前にいる人々が知りたがっている情報をこちらから提供して、その流れの中で自然に広告を踏んでもらうという方法だ。
しかし残念なことに僕は、誰かに提供できるような特殊な知識やスキルを持ち合わせていないので、誰にとってもどうでもいいような情報をただ羅列しただけのゴミサイトを作ることしかできなかった。
けれども、そんなゴミサイトを山のように量産していくことで、そこそこまとまった量のPVを得ることができたのだ。やがてそれらのサイト群から、馬鹿にできない量の収益が発生するようになった。
次に僕は、そこで発生した収益を元手に、投資を始めてみることにした。株よりFXの方がわかりやすいので、ひとまずはFXを気軽な気持ちで始めてみた。どうせあぶく銭、ダメでもともとのつもりで適当な売り買いを繰り返していく。そこでの僕は、一瞬で自分のお金が増えたり減ったりしていく様をただ傍観者のように眺めていることしかできなかった。

 


僕は一体何をやっているのだろうか。
誰かの役に立つわけでもない大量のゴミサイトを量産し、それによって得た収益で、今度はギャンブルの真似事に興じている。
そもそも、僕は何がしたかったのだろう。自分を強く見せるために、そのバロメータとなるお金がたくさん欲しかったのだった。けれどもそんな手段でお金を増やしても、本当に自分が強くなったことになるのだろうか。そして、そもそもお金なんて、とどのつまりは、ただのデータではないのか。極端な話、銀行の中にある、どこかのサーバーのハードディスク上の、僕の銀行口座のデータの数値が、日々書き換わっているだけにすぎない。そのことに対して、自分が強くなったとか、成長したとか、無理やり意味付けしてきただけなのではないだろうか。
そこまで考えて、たかが金だよなー、と思うようになった。
結局のところ、お金と自分の価値を紐付けるようなことをしても、ただ虚しさが残るだけで、とても無意味なことだと思うようになった。

 


たかが、お金。そこに特別な意味なんて必要ない。
今一度、お金とは切り離したところでの自分の価値を、問いなおす必要があると最近は感じている。

誰がWindowsXPを殺すのか?

最近、会社のメールに、社外からよくウィルス入りのメールが送られてくるらしい。
この手のウィルスメールは、以前だったら、文面が英語だったり、一部怪しい感じの日本語で書かれていたりしたものだ。ところが、最近のやつは非常に自然な文面を装っていて、「見積書をご確認ください」だの「台風の対策について」など、取引先や同僚からのメールと勘違いしてうっかり添付ファイルを開いてしまいそうな雰囲気になっているという。
で、その話を聞いてふと思ったのは、これってもしかしてウィルス自体に自律型のAIが搭載されているのではないかということだった。

 

 

僕が予想するウィルス拡散の流れはこうだ。

①誰かがうっかりウィルスメールを開いてしまい、そのPC上でウィルス感染する。
②そのPC上でウィルスは、外部のWebから適当な時事ネタを拾ってきて、そこから自然な日本語での文章を生成する。
③さらにウィルスは、そのPC上に入っているアドレス帳から、メールアドレスを収集する。
④最後にウィルスは、自分で生成した文章を本文にして、 自分自身を添付ファイルにし、アドレス帳から取得した複数のメールアドレスに向けて、 無作為にメールを送りつける。

こんな感じかな。

これの繰り返しで、このウィルスは永遠に自分の子孫を増やし続けていくのではないかと思って、ぞっとしたきもちになってしまった。

メールの世界で機械に侵略されていく人間。まるでターミネーターみたいだ。

 

 

技術的にはこういう挙動をするウィルスを作成することは充分可能だと思うし、誰も気づいていないだけで、ひょっとしたらすでにそこらじゅうで起こっている出来事なのかもしれない。
PC側では、そういうことはできないようにOSのセキュリティアップデートで何重にも対策はとられているだろうが、世の中には無防備な状態でネットに繋がっているPCが数多く存在している。WindowsXPを搭載したPCのことなのだが、これって、中小企業なんかではいまだに現役で動いていたりする。また、そういう会社の社員はITリテラシーが低く、かなり高い確率でウィルスメールを開いてしまうだろう。
この種のウィルスがWindowsXP上で蔓延することで、いまだに世界シェア10%を誇るこの時代遅れのOSは、ようやく世界から駆逐されるのではないだろうか。