坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

心の中のからっぽ

子供の頃から僕は、大勢でわいわいと話をするような場面が苦手だった。
あまり知らない人たちと笑顔で「雑談」するとか至難の業だったので、そういったいわゆる「人付き合いスキル」が必要な場面で、とても苦労することが多かったのだ。
それでも学生時代はまだなんとかなっていた。勉強とか部活とか、そういったものは、わりかし他人の指示にしたがっているだけでやり過ごせる場面が多かったので、そんなに困ることはなかったのだ。
ところが、社会人になってからは、勝手が違った。特に「打ち合わせ」や「飲み会」と称されるような場面で、やっかいなことになった。
そういう場面での僕は、とにかく周囲の人間と何を話していいのかよくわからなくなってしまい、またどのようにふるまえば正しいのかが全くわからずに、一人でオロオロとしていた。
それでよく周囲からは、「なんでなんにもしゃべらないの?」「なんでこんなふうに動けないの?」みたいに罵倒されることが多かった。
なんで僕は周囲から期待される動きができないのだろう。自分でも不思議に思った。
普通の人のようにうまくふるまうことのできない自分は、なにか頭に致命的な欠陥を抱えているのではないのだろうか、そんなふうに思いながら、地味に傷ついていた。
 
 
僕の心の中は常にからっぽだ。
だから言葉がうまく出てこない。
 
 
きっと「普通の人達」の心の中身は、多種多様な色や形の言葉で埋め尽くされていて、そこからあふれ出した言葉が、口から矢継ぎ早に飛び出してくるようになっているのだろう。彼らは何の苦労も厭わずに、周囲の人間と円滑なコミュニケーションを図り、そして彼らの口から生まれてきた無数の言葉の応酬が、この日常やこの世界を、いい感じに成立させているのだろう。
 
 
僕は僕なりに、この世界を上手に生き抜いていくために、これまで様々な工夫をしてきた。
その工夫の一つとは、「他人との会話や行動をパターン化する」というものだ。
他人からこういう言葉がきた時には、こういう言葉で返すとか、他人からこういう行動をとられた場合は、こういうふうに行動しかえす、というふうに、想定できる全ての会話や行動をパターン化してしまうのだ。すこし例えがおかしいかもしれないが、アクションゲームの攻略に似ているかもしれない。
まだ若い頃は、パターン化が固まっていないケースに遭遇することが多く、色んな場面でフリーズしてしまうことが多かった。けれども歳を取るに連れて、いろんな経験を通じて、たくさんの会話や行動がパターン化できるようになってきて、固まってしまうことはほぼ皆無になってきた。
いわゆる「普通の人のフリ」が上手になったのだ。
そうやってたくさんの会話や行動のパターンを無限に作ってきて、自分の中に積み上げてきたその延長線上に、僕という存在があるといっても過言ではないだろう。
 
 
だが、そこで出てくる疑問としては、そうやってできあがった僕という人間は、本当に僕なのだろうかということだ。
ただ他人の言葉や行動に対して、機械的に自動的に応答し続ける、ロボットのような存在にすぎないのではないだろうか。
 
 
歳を取って、世渡りが上手になったけど、いまでも心の中はからっぽだ。
からっぽの心の外側を、無数の世渡りパターンでベタベタとコーティングしているだけで、本質的にはなにも変わっていないように思う。
自分という人間は、どこにもいない。いくら年齢を重ねても、そんな感覚に陥ってしまうことがよくある。
どこまでいっても欠落した感じを心の中に抱えていて、それは別に苦しくはないんだけれども、けして満たされることもないのだ。