はじめてのオフ会
今から20年ほど前、インターネットが一般家庭で普及を始めた頃、僕は自分でホームページを作ってWEB上に公開していた。
これはかなり悪趣味なホームページで、当時の海外サイトから集めてきた大量の死体写真と、気違いじみた自分の文章を組み合わせて、前衛芸術のような感じの作品を目指して色々と表現していた。普通に常識のある人が見たら、間違いなく目を背けたくなるような、ゴア表現の強い作品群だった。
なんでそんな妙なことをやっていたのかというと、その頃の僕はまだ若く、世の中の全ての物事に対して憎悪のまなざしを向けていた時期だったからだ。そういう時期に、自分の中にあったもやもやしたドス黒い悪意を、世界中に対してぶつけてしまえる手段があったというのは、ある意味では救いだったように思う。
かなり悪趣味の強いホームページだったにもかかわらず、それでも面白がって見に来てくれるような人がわずかながら存在していて、そういう人たちからの応援のメールを読んだりするのが当時は楽しかった。
その中に、新作を公開する度にいつも励ましのメールをくれる女性が一人いて、やがてその人とよくメールのやりとりをするようになった。
こんなホームページを好きになって見に来てくれる女性なんて絶対にイカれている。そう思いながらも、どんな人なのかとても気になるようになってしまった。住んでいる場所も近かったので、一度会ってみようという話になって、本当に会うことになった。
待ち合わせの場所に行くと、そこには今まで出会ったことのないタイプの女性がいた。
年齢は同い年くらい。髪型はなんか長くてもじゃもじゃした感じ。ピアスの穴が多い。
なかでも特に目をひいたのは、二の腕に大きな裸の女神の刺青をしていることだった。
「その刺青すごいなぁ。」
「あぁ、これ?あたし父親が彫り師してるから、こういうのまったく抵抗ないねん。」
二人で喫茶店に入って、他愛もない話ばかりしていたような気がする。彼女がデザイン関係の仕事をしていたので、そっち方面の話をしていたように思うが、とにかくとてもよく喋る女性だった。なにか、生き急いでいるような感じがした。
その日は普通にお茶をして別れたが、ネットを通じて知り合った人とリアルで接触したのはこれが初めてのことだったので、とても新鮮な気持ちだった。
それまでの僕は、自分と似たようなタイプの人間ばかりが寄せ集まって構成されている社会で生きてきたので、いきなりポンと目の前に現れた彼女のような人に対して、どう反応してよいのか正直よくわからなかった。
おそらく彼女は、普通に生きていたら絶対に知り合うことのなかったカテゴリに属する人だろう。そういう意味でも、インターネットは秩序だったこの世界を、いったんフラットにしてしまう可能性を持ったものなのだ。そんなことを、当時は考えていた。
白いしるし
西加奈子さんの「白いしるし」という小説を読んだ。
今年の正月に、「共感百景」というテレビ番組が流れていて、そこに西加奈子さんが出ていて、とても面白い人だなと思ったのが、この作家さんを最初に知ったきっかけだった。
その番組は、「提示されたお題に対して出演者が一句詠む」みたいな感じの番組だったのだが、そこでの彼女の言葉の選び方、というか日本語のセンスみたいなものに、とても惹かれるものを感じたのだ。それで、この人の書いた小説を一度読んでみたいと以前から思っていたのだ。
「白いしるし」は、32歳の画家の女性を主人公にした恋愛小説で、なんかそう聞いただけで、僕には感情移入できる場所なんてきっとないだろうなーと思いながら、あまり期待せずに読んでいたら、これがこれがかなり激しく心を揺さぶられる言葉にぶつかったりして、終始圧倒された。苦しかった。
誰かを好きになったり、別れたりする場面での主人公の心の動きを文章にしているところが、とても精緻に丹念に描かれていてリアルで重たくて、読んでいて息苦しさを感じるくらいだった。そういう恋愛的なものからは遠ざかって久しい僕でさえ、もう読んでいて過去のことを色々と思い出してしまってしんどくなってきて、時々休憩を入れながら読まないといけないくらいだった。
他にこれはと思ったことは、文体についてだろうか。
主人公が関西の人間なので、文中のセリフは全て関西弁で書かれている。そして、セリフ以外の部分、つまり心理描写や情景描写の部分は標準語で書かれているのだが、だんだんその部分までもが関西弁っぽいイントネーションで心の中に入ってくるようになってきて、驚かされた。絶対にこれは、そこまで計算して書かれているのだと思う。小説を読んでいて、こんな体験をしたのは初めてのことだ。
ストーリーについては、王道の恋愛モノのパターンを踏襲していて、いわゆる「AさんはBさんのことが好きで、でもBさんはCさんのことが好きで、でもCさんはDさんが好きで…」っていう流れで展開していくのだが…ラストの方、力技でとてもさわやかな終わり方にもっていくのが素晴らしかった。
報われなくてもいいから、と、思った。
瀬田の想いが、塚本美登里の想いが、間島昭史の、私の想いが、どうか救われますように。その先に、光がありますように。願った。願った。
最後はちょっと宗教的なニオイも感じるような気がするが、でもこの終わり方は物語としてすっきりしていてとてもよい感じだ。
報われることのないことが多い人生で、せめて「想い」だけは救われたいと、そういう心境にたどり着くまでの主人公の軌跡に、とても共鳴してしまった。
この西加奈子さんという作家は要注目として、今後も自分の中の読書リストに追加していこうと思う。
ありがとう…ごめんね…
昔から、北野武監督の映画が好きで、これまで公開された作品はほぼ全て観てきた。
このゴルデンウィーク中にふと思い立って、「HANA-BI」をもう一度観返してみることにした。
北野映画の中でもとりわけ僕が好きなこの作品、劇場公開されたのがもう20年ほど前だということに驚きを覚えながら、新鮮な気持ちで久しぶりに観てみた。
初めて観たのは20代の頃で、当時は過剰な暴力描写や、そこに見え隠れする死生観に目が釘付けになっていたのを覚えている。40代になった今、改めて観てみると、気持ちが持っていかれる箇所がずいぶん異なっていて、とても興味深く感じた。
物語のあらましは、とても単純だ。
刑事役のビートたけしが、あちらこちらで揉め事を起こした挙句、銀行強盗を企て成功する。そしてその後、不治の病にかかっている妻と逃避行の旅に出るものの、ヤクザと警察の両方から徐々に追いつめられていき、行き場を失った二人は…というもの。
荒唐無稽なストーリー展開のようだが、後半部分の「夫婦で逃避行する場面」がとても丁寧に描かれていて、観ているこちらの心にじわりと暗い影を落としてくる。
妻役の岸本加世子が難病にかかっているという設定なので全くセリフを話さず、ビートたけしとの会話が全くないままに映画は進んでいく。
俗世間からだんだんと距離をとりながらも、言葉以外のコミュニケーションでしっかりと結びついている夫婦の様子が感じられて、途中から、あぁこれはいびつな形の「夫婦愛」を描いた作品なんだなということに気づかされる。これは若い頃に観た時には気がつかなかったことだ。
さらに物語の終盤にさしかかるにつれて、この映画の中の夫婦の姿を、自分と自分の妻に重ねて見るようになってしまっていることに気がついた。
僕たち夫婦も、世間一般から見て、とてもはみ出した場所で生きているように感じているからだ。
二人とも心にやっかいな障害を抱えていて、そのままの状態ではとてもとても生きにくい人生を、それでもどうにかしてやり過ごそうとして常にもがいている。
その、世間から逸脱した生きにくい感じと、映画の中で逃避行を続ける二人が、心情的に重なる部分が多く、さらに感情移入させられる。
ラストシーンで、波が打ち寄せる海岸にて二人が肩をならべて海をみつめるところがとても切ない。
そこで岸本加世子がこの作品で唯一の言葉を発するのだが、それが「ありがとう…」と、それに続く「ごめんね…」なのだ。
このセリフの直後の二人の視線のさまよい方が絶妙で、僕はもうここで涙が止まらなくなってしまった。
夫婦って、色々あっても結局はこの言葉に集約されてしまうものなのだ。
「いままでいっしょにいてくれてありがとう」という感謝の気持ちと、「あんまりいい相方じゃなくてごめんね」っていう謝罪の気持ちがないまぜになっているような、そんなシンプルで、奥行きの深い感情にたどりついてしまうのだ。
この映画を次に観る時、それは10年後か20年後かはわからないが、その時はどんな違った表情をみせてくれるのだろう。
「HANA-BI」はそんなことを考えさせられるとても深い映画だった。