坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

白いしるし

西加奈子さんの「白いしるし」という小説を読んだ。

 


今年の正月に、「共感百景」というテレビ番組が流れていて、そこに西加奈子さんが出ていて、とても面白い人だなと思ったのが、この作家さんを最初に知ったきっかけだった。
その番組は、「提示されたお題に対して出演者が一句詠む」みたいな感じの番組だったのだが、そこでの彼女の言葉の選び方、というか日本語のセンスみたいなものに、とても惹かれるものを感じたのだ。それで、この人の書いた小説を一度読んでみたいと以前から思っていたのだ。

 


「白いしるし」は、32歳の画家の女性を主人公にした恋愛小説で、なんかそう聞いただけで、僕には感情移入できる場所なんてきっとないだろうなーと思いながら、あまり期待せずに読んでいたら、これがこれがかなり激しく心を揺さぶられる言葉にぶつかったりして、終始圧倒された。苦しかった。
誰かを好きになったり、別れたりする場面での主人公の心の動きを文章にしているところが、とても精緻に丹念に描かれていてリアルで重たくて、読んでいて息苦しさを感じるくらいだった。そういう恋愛的なものからは遠ざかって久しい僕でさえ、もう読んでいて過去のことを色々と思い出してしまってしんどくなってきて、時々休憩を入れながら読まないといけないくらいだった。

 


他にこれはと思ったことは、文体についてだろうか。
主人公が関西の人間なので、文中のセリフは全て関西弁で書かれている。そして、セリフ以外の部分、つまり心理描写や情景描写の部分は標準語で書かれているのだが、だんだんその部分までもが関西弁っぽいイントネーションで心の中に入ってくるようになってきて、驚かされた。絶対にこれは、そこまで計算して書かれているのだと思う。小説を読んでいて、こんな体験をしたのは初めてのことだ。

 


ストーリーについては、王道の恋愛モノのパターンを踏襲していて、いわゆる「AさんはBさんのことが好きで、でもBさんはCさんのことが好きで、でもCさんはDさんが好きで…」っていう流れで展開していくのだが…ラストの方、力技でとてもさわやかな終わり方にもっていくのが素晴らしかった。

 

 


報われなくてもいいから、と、思った。
瀬田の想いが、塚本美登里の想いが、間島昭史の、私の想いが、どうか救われますように。その先に、光がありますように。願った。願った。

 


最後はちょっと宗教的なニオイも感じるような気がするが、でもこの終わり方は物語としてすっきりしていてとてもよい感じだ。
報われることのないことが多い人生で、せめて「想い」だけは救われたいと、そういう心境にたどり着くまでの主人公の軌跡に、とても共鳴してしまった。

 


この西加奈子さんという作家は要注目として、今後も自分の中の読書リストに追加していこうと思う。

 

 

白いしるし (新潮文庫)

白いしるし (新潮文庫)

 

ありがとう…ごめんね…

昔から、北野武監督の映画が好きで、これまで公開された作品はほぼ全て観てきた。
このゴルデンウィーク中にふと思い立って、「HANA-BI」をもう一度観返してみることにした。
北野映画の中でもとりわけ僕が好きなこの作品、劇場公開されたのがもう20年ほど前だということに驚きを覚えながら、新鮮な気持ちで久しぶりに観てみた。
初めて観たのは20代の頃で、当時は過剰な暴力描写や、そこに見え隠れする死生観に目が釘付けになっていたのを覚えている。40代になった今、改めて観てみると、気持ちが持っていかれる箇所がずいぶん異なっていて、とても興味深く感じた。

 

 

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物語のあらましは、とても単純だ。
刑事役のビートたけしが、あちらこちらで揉め事を起こした挙句、銀行強盗を企て成功する。そしてその後、不治の病にかかっている妻と逃避行の旅に出るものの、ヤクザと警察の両方から徐々に追いつめられていき、行き場を失った二人は…というもの。
荒唐無稽なストーリー展開のようだが、後半部分の「夫婦で逃避行する場面」がとても丁寧に描かれていて、観ているこちらの心にじわりと暗い影を落としてくる。
妻役の岸本加世子が難病にかかっているという設定なので全くセリフを話さず、ビートたけしとの会話が全くないままに映画は進んでいく。
俗世間からだんだんと距離をとりながらも、言葉以外のコミュニケーションでしっかりと結びついている夫婦の様子が感じられて、途中から、あぁこれはいびつな形の「夫婦愛」を描いた作品なんだなということに気づかされる。これは若い頃に観た時には気がつかなかったことだ。

 


さらに物語の終盤にさしかかるにつれて、この映画の中の夫婦の姿を、自分と自分の妻に重ねて見るようになってしまっていることに気がついた。
僕たち夫婦も、世間一般から見て、とてもはみ出した場所で生きているように感じているからだ。
二人とも心にやっかいな障害を抱えていて、そのままの状態ではとてもとても生きにくい人生を、それでもどうにかしてやり過ごそうとして常にもがいている。
その、世間から逸脱した生きにくい感じと、映画の中で逃避行を続ける二人が、心情的に重なる部分が多く、さらに感情移入させられる。

 


ラストシーンで、波が打ち寄せる海岸にて二人が肩をならべて海をみつめるところがとても切ない。
そこで岸本加世子がこの作品で唯一の言葉を発するのだが、それが「ありがとう…」と、それに続く「ごめんね…」なのだ。
このセリフの直後の二人の視線のさまよい方が絶妙で、僕はもうここで涙が止まらなくなってしまった。
夫婦って、色々あっても結局はこの言葉に集約されてしまうものなのだ。
「いままでいっしょにいてくれてありがとう」という感謝の気持ちと、「あんまりいい相方じゃなくてごめんね」っていう謝罪の気持ちがないまぜになっているような、そんなシンプルで、奥行きの深い感情にたどりついてしまうのだ。

 


この映画を次に観る時、それは10年後か20年後かはわからないが、その時はどんな違った表情をみせてくれるのだろう。
HANA-BI」はそんなことを考えさせられるとても深い映画だった。

 

 

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心の中のからっぽ

子供の頃から僕は、大勢でわいわいと話をするような場面が苦手だった。
あまり知らない人たちと笑顔で「雑談」するとか至難の業だったので、そういったいわゆる「人付き合いスキル」が必要な場面で、とても苦労することが多かったのだ。
それでも学生時代はまだなんとかなっていた。勉強とか部活とか、そういったものは、わりかし他人の指示にしたがっているだけでやり過ごせる場面が多かったので、そんなに困ることはなかったのだ。
ところが、社会人になってからは、勝手が違った。特に「打ち合わせ」や「飲み会」と称されるような場面で、やっかいなことになった。
そういう場面での僕は、とにかく周囲の人間と何を話していいのかよくわからなくなってしまい、またどのようにふるまえば正しいのかが全くわからずに、一人でオロオロとしていた。
それでよく周囲からは、「なんでなんにもしゃべらないの?」「なんでこんなふうに動けないの?」みたいに罵倒されることが多かった。
なんで僕は周囲から期待される動きができないのだろう。自分でも不思議に思った。
普通の人のようにうまくふるまうことのできない自分は、なにか頭に致命的な欠陥を抱えているのではないのだろうか、そんなふうに思いながら、地味に傷ついていた。
 
 
僕の心の中は常にからっぽだ。
だから言葉がうまく出てこない。
 
 
きっと「普通の人達」の心の中身は、多種多様な色や形の言葉で埋め尽くされていて、そこからあふれ出した言葉が、口から矢継ぎ早に飛び出してくるようになっているのだろう。彼らは何の苦労も厭わずに、周囲の人間と円滑なコミュニケーションを図り、そして彼らの口から生まれてきた無数の言葉の応酬が、この日常やこの世界を、いい感じに成立させているのだろう。
 
 
僕は僕なりに、この世界を上手に生き抜いていくために、これまで様々な工夫をしてきた。
その工夫の一つとは、「他人との会話や行動をパターン化する」というものだ。
他人からこういう言葉がきた時には、こういう言葉で返すとか、他人からこういう行動をとられた場合は、こういうふうに行動しかえす、というふうに、想定できる全ての会話や行動をパターン化してしまうのだ。すこし例えがおかしいかもしれないが、アクションゲームの攻略に似ているかもしれない。
まだ若い頃は、パターン化が固まっていないケースに遭遇することが多く、色んな場面でフリーズしてしまうことが多かった。けれども歳を取るに連れて、いろんな経験を通じて、たくさんの会話や行動がパターン化できるようになってきて、固まってしまうことはほぼ皆無になってきた。
いわゆる「普通の人のフリ」が上手になったのだ。
そうやってたくさんの会話や行動のパターンを無限に作ってきて、自分の中に積み上げてきたその延長線上に、僕という存在があるといっても過言ではないだろう。
 
 
だが、そこで出てくる疑問としては、そうやってできあがった僕という人間は、本当に僕なのだろうかということだ。
ただ他人の言葉や行動に対して、機械的に自動的に応答し続ける、ロボットのような存在にすぎないのではないだろうか。
 
 
歳を取って、世渡りが上手になったけど、いまでも心の中はからっぽだ。
からっぽの心の外側を、無数の世渡りパターンでベタベタとコーティングしているだけで、本質的にはなにも変わっていないように思う。
自分という人間は、どこにもいない。いくら年齢を重ねても、そんな感覚に陥ってしまうことがよくある。
どこまでいっても欠落した感じを心の中に抱えていて、それは別に苦しくはないんだけれども、けして満たされることもないのだ。