坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

ネットで自殺予告する人々

この間ツイッターをぼんやり眺めていたら、「今から首吊ります。みなさんさようなら。」という書き込みを見つけた。

気になったので、該当ツイートをクリックすると、たくさんのリプライがついていた。
「それはだめだ。やめろ。」
「とりあえずその首にかけてる紐を外そうよ。」
「また君とお話ししたいのに、お願いだからやめてよ。」
どうも本気の自殺予告のようだった。
その後しばらくの間、その人のツイートをちょくちょく観察していたのだが、翌日になって「やっぱり死にきれませんでした。みなさんお騒がせしました。ごめんなさい。」という書き込みがアップされた。
そしてその直後、まだ舌の根も乾かぬうちに「おいしいケーキが食べたい!」みたいな日常ツイートに戻っていて、なんだかやるせない気持ちになってしまった。
「死」という重苦しい言葉を口にした時の、あの悲壮感は一体どこにいったんだよ、と思う。怒るでしかし。

 


SNSが一般的なものになってからというもの、このようにカジュアルな感じで自殺予告する人が増えたように感じる。
こういうものを見つけると、いつだってちょっとドキドキしてしまう。
親しい知人だった場合は、全力でストップをかけにいくだろうが、全く面識のない赤の他人の場合だったりすると、「お、おう」みたいな感じになって、その後、興味本位でどうなるのかとチラチラ観察することになる。
ほとんどの場合、今回のような感じで、「やっぱり無理でした。お騒がせしてごめんなさい」的な謝罪文の後で、もとの日常ツイートに戻っていく。
いつから「死」は、こんなに軽いものになってしまったのだろうか。

 


ネットで自殺予告するような人って、やっぱりどこかで誰かに止めて欲しいみたいなところがあるのだろうか。
あの自殺予告ツイートについていた数多くのリプライが、なにか自殺を引き止める力になってくれたりするものなのだろうか。
自殺予告の書き込みを見て心配した知人が警察に通報して、それを受けて警察官が自宅まで来たりすることもあるらしいので、そういうところまで見越した上で、あえてネットでそういう書き込みをしているのかもしれない。本当に死んでしまわないように、あらかじめ予防線を張っている可能性もある。
僕が思うに、本当に死のうと思っている人っていうのは、もっと孤独の中にひっそりと埋もれてしまっているような気がするのだ。
「死」は、そんな饒舌なものではなく、普段のなにげない日常の中にひそかに紛れ込んでいて、ある時当然ひょっこりと顔を出してくるような、そんなイメージなのだ。

 


とはいうものの、ごくごくまれに、ネットで自殺予告をして、そのまま本当に死んでしまう人がいるのも事実だ。
そういうものを目にすると、さすがにへこんでしまう。興味本位で覗き見していたはずが、一転していやーな気持ちになってしまう。
「やっぱり死ねませんでした。」という書き込みを見て、腹ただしい気持ちになるのとはとても対照的だ。赤の他人とはいえ、人が死んでいい気持ちになれるわけがないのだ。
そして、故人が残した数多くのツイートやブログ記事をざっと流し読みしながら、もうこの人はこの世にはいないのだという事実が胸の中に澱のような重苦しい感情を残していく。
だが、そんな感情も、そんなに長くは続かない。ブラウザを閉じて、パソコンの電源を落とす頃には、もうそんな人のことなど、ほとんど忘れかけてしまっている。
そんなものなのかもしれない。
悲しいが、僕が生きている今の時代では、「死」さえも手軽に消費されてしまう情報のひとつに過ぎないのだ。

 

 

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