坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

未来社会における監視や、そこでの人間の意志について

最近のGmailはとても賢い。
どのくらい賢いかと言うと、誰かから送られてきたメールの内容を自動的に解析して、返信メールを勝手に生成してくれるのだ。
例えば、送られてきたメールがとある本について書かれていて「これってどう思う?」みたいな問いかけてくる内容だったとすると、そこから「いいんじゃない?」「うーん、あんまりかな。」とか、予想される返答の文章をいくつか表示してくれるようになっているのだ。
僕はそこから妥当な内容の文章を選んで、返信ボタンを押すだけでよいという、これだけ聞くととてもラクチンでよいなと思うのだが、なんかメールっていうプライベートなものを、そこまで詳しく解析されていることに、正直不気味さを感じてしまうのも事実だ。
グーグルはおそらく、僕とメールの相手の関係性について、かなり正確に把握することができるし、どの程度の頻度で連絡を取って、お互いにどういう行動を取っているのかまで、24時間365日に渡って休まず監視し続けることが可能だ。

 

こういう話はGmaiに限ったことではなくて、もちろん他にもある。
例えば、iPhoneのカレンダーに予定を登録しておくと、事前にアラート表示してお知らせしてくれる機能がある。
これも、ただ単に登録した時刻が来たらアラート表示してくれるという単純なものではなくて、例えば「10時から歯医者」という予定を登録しておくと、僕が普段通っている歯医者の場所を、どうもこのiPhoneは覚えているみたいで、歯医者の場所と、僕がいる自宅の場所の間の電車の路線や時刻表を調べて、「9時までに出発すれば間に合いますよ」というメッセージを事前に表示してくれる。まったくどこまでお節介焼きなのだろう。
便利だが、これはこれで、とてもプライベートな情報を僕はアップルに握られていることになるし、あまりいい気はしない。

 

よく、子供のころに読んだSF小説なんかで、コンピューターに監視されて支配される世界みたいなものが描かれているやつがあったけど、なんかそういうのも気づかないうちに現実的になりつつあるのかなと思ったりしてしまう。
小説の世界では、そういうのって国家や政府が権力を集中させるためにやったりするイメージだったけど、そうではなくて、私企業が独断で勝手にやっているというところが面白いけど。

 

もう一つ怖いなと思うことがあって、それは、こういうサービスがだんだん浸透していくことによって、だんだん僕らがものを考えなくなっていくのではないかという懸念だ。
ユーチューブでなにかの動画を見終わったら、「次はこれを観なさい」「その次はこれね」みたいな感じで次々と候補をレコメンドしてくれて、抜け出せなくなることがよくある。フェイスブックを開くと「あなたの友達かも?」の一覧が無限に出てきてほんとうに鬱陶しい。
僕は僕の意志で、観たいものを観たいし、付き合いたい人と付き合いたいのだ。
いまここで、「アイス」という単語を入力すると、「食べたい」という予測変換が勝手に出てくるのだが、僕はアイスを食べたいわけではなく作りたいのだ。
その昔、ワープロが普及して、手書き文化が廃れた時に、みんなの頭から急速に「漢字」が忘れ去られていったように、このままいろんなアプリやサービスに甘やかされているうちに、自分の意志で選択して行動する力が、どんどん弱ってきたらどうなるんだろう。

違法なことをしているという意識がないまま逮捕されてしまうことの怖さ

巷で話題になっているコインハイブを仕掛けると警察が自宅にやって来るという話だが、こういうの怖いから本当にやめて欲しい。
こういう、ネットでごにょごにょしているだけで思いもかけず罪に問われてしまうという話は、昔からちらほらと見聞きしていて、その度に僕はいつも肝を冷やしていた。

 

古くは、ファイル共有ソフトを作って捕まってしまった人がいた。

そのソフトを使った人々がやり取りしていたファイルが、違法性の高いものだったということで、ソフト作成者が違法ダウンロード幇助の罪に問われてしまったというものだ。
でも、僕もその昔、某オンラインストレージから自動で複数ファイルをダウンロードしてくるツールを自作していたことがあって、これなんかも使いようによっては違法ファイルのやり取りに使えたりしてしまう。もし調子に乗ってネットで公開して広まっていたりしていたら、警察のお世話になっていたかもしれない。そう考えると怖くなってくる。

 

また、これもかなり以前の話だが、図書館のサーバーに負荷をかけて捕まった人がいた。
この人の場合は、普段使っていた図書館の蔵書検索システムがクソだったので、自前でもっと使い勝手の良いサービスを作ろうとしていたという。その為に、図書館の検索サイトから蔵書データを全件抜いてこようとしたところ、大量に負荷をかけすぎて何度もサーバーダウンさせてしまい、これにたまりかねた図書館側が警察に訴えて、この人は業務妨害容疑で逮捕されてしまったという。
実は、この事件がおきる数年前に、僕も近所の図書館の蔵書検索サービスの使い勝手が悪いのが不満だったので、この人とまったく同じことをやって、同様に何度かサーバーを落としてしまったことがある。しょぼいサーバー使ってんじゃねーよと当時は思ったりしていたものだが、今考えると全然笑えない。僕がこの人の代わりに、逮捕事例に入っていたとしても全然おかしくはない。


また最近でも、メルカリで現金を販売して捕まっている人がいて、これはどうも出資法違反になるらしいんだけど、これについても僕はメルカリでお金を売るのが話題になりだした頃に、そんなうまい話があるのなら自分でもやってみようかと思って、アカウントを作って商品登録する寸前までやっていたことがあった。結局途中で面倒くさくなってやらなかったんだけど、これも今思うと相当やばいことをやろうとしていたのかもしれない。

 

で、コインハイブである。
これは最初にネットで話題になった頃に、試しに自分のサイトに入れてみた人たちのレポートを眺めていると、微々たる利益しか見込めないとのことだったので、僕はあまり注目していなかった。

けど、もし月に1〜2万円くらいの利益が出るものだったら、僕も試しに手持ちのサイトに仕込んでいたかもしれない。その可能性は十分にある。

 

ここまで、ちょっと自分の過去のネット活動を振り返ってみただけでもこれだけザクザク出てくるのに、これからも僕はこういう怪しげなことに手を染めてしまうことが一切ないと言い切れるだろうか?
なにより一番怖いのは、やっている当人は悪いことをしているという自覚も何も全くないということなのだ。人を殺したり、人からお金を奪ったりするのはもちろんのこと、スーパーに並んでいる商品を万引きしたりすることは犯罪だし、そういうあきらかにハンザイハンザイしているものは、自分は絶対にやらないという自信がある。
けれども、こういうネットでちょっと怪しげなことをごにょごにょということに、自分はどうしても惹かれてしまう性分みたいなので、なんだかこれからもとても怖いのである。

小説学校が面白くなってきた

この5月から、小説の書き方を教えてくれる学校に通っている。
1年を通しての講義の内のまだまだほんの序盤なので、講義の内容もミステリやSF小説の歴史や種類についての解説が中心で、まあそれを聴いているのも面白いんだけれども、そんな話を聴いていても小説がパカパカ書けるようにはなったりしないだろうなというのが正直な感想だった。
ところどころ、文体についてのテクニック的な話があったり、アイデアを発想する際の方法論的なものについて解説があったりもするので、そこのところは「書く」上での役に立ちそうな内容であるような気がした。


そして、先週あたりからぼちぼち、講師から「課題」が出るようになった。
ぶっちゃけこの課題がすごく楽しい。
「次の文章をハードボイルド風に書き直しなさい」とか「次の5人の容疑者の中から犯人と思われる人物を選び、その理由を説明しなさい」とか、そういう形式で、表現や文体の練習だったり、アイデアの出し方についていろいろと実践してみましょうということらしい。


この課題、提出締め切りまでに2週間の期間が与えられているのだが、その間の僕は、毎日のように真剣にああでもないこうでもないと思い悩み、まるで締切に追われながらもなんとかして一片のアイデアを産み出そうとしている作家のような気分だった。
そして、そうやって提出した課題は、受講生全員の分が一冊の冊子にまとめられて、全員に配布されることになる。
この、他の人が書いたものを読むのが、超絶面白いのだ。
僕がいるクラスの受講生は、全部で15人くらいいるのだが、誰一人として同じ内容の解答になることはなく、中にはよくこんなこと思いつくよなーと感心してしまうような独創的な解答もあって、思わず唸らせられてしまう。

いままで僕の身近には、小説を書いたりするような人が一人もいなかったので、こういう人たちの中に混じって切磋琢磨するのは、文書力を鍛える上ですごくよい機会になっているのではないかと思う。

 

やっぱり、講義をただ黙ってじっと聴いているよりも、こういう風に講師から提示された課題を全員でやって、お互いに読み合いしながら評価し合うのが、この講座の醍醐味であって、こういうのがなかったら、巷にあふれている「小説の書き方本」を読んでるのとさほど違いがないのではないかと思ってしまう。
こうやって実際に手を動かして書き上げて、周りはどんな感じかなと様子を伺いつつ、講師からのフィードバックも頂きつつ、そんなこんなしているうちに、自分の中のアイデアを発想する力や、それを文章で表現する力が鍛えられていけそうな、そんな気がしている。

アマゾン輸出って儲かるんだろうか

ご存知の方も多いとは思うが、ネット上に村上総裁という面白い人がいて、昔からいろんなWebサービスを作って公開したりしている人なんだけど、本とかも出しているし、schooの動画にも出ていらっしゃる姿を観るにつけ、とても楽しい人で、僕は以前から彼のファンだった。
そんな彼が最近、日米アマゾン商品価格比較サイトというものを作って公開し始めた。


その名の通り、日米のアマゾンで出品されている同一の商品の中で、価格差が大きくて売れ筋の商品を調査して一覧化してくれるツールのようなものだ。
例えば、日本で1万円くらいの家電製品が、アメリカでは5万円くらいの値がついているものがあって、それを日本のアマゾンで買って、アメリカのアマゾンに出品して売れれば、4万円の利益になるということだ。

これは以前にこのブログにも書いたことがあるんだけど、こういうツールが実はずっと欲しかったのだ。
アマゾンを使ったせどりは、だいたい2013年くらいから流行り出して、その頃にたくさん関連書籍も出ているし、一度じっくりとそれらに目を通してみたこともあるんだけど、そういう本って、どうやって商売するかという手段の方にフォーカスしていて、じゃあ何を売ればいいのかというところがはっきりと書かれていなくて、当時はやってみようという気が起こらなかったのだ。
実際に、自分がこれは売れそうだなと思う商品を予想するということは、その思惑が外れて不良在庫を抱えてしまうことになる可能性もあるわけだ。言ってみればモノに対して投資することになるわけで、株とかFXとかと一緒で、根拠もなくやるのは何かギャンブル的でとても怖い感じがする。
でも、日米で価格差が大きい商品の中で、売れ筋のものが事前にわかっているとすれば、そういう商品ばかり出品していれば、どんどん儲かりそうな気もする。
で、それって答えはアマゾンの膨大な商品ページの中を調べれば出てくるはずで、そういうのをうまくシステム化して自動ではじきだせるようにすれば、あとは出品の指示をするだけでよくなるんじゃね?と以前から思っていた。
そういうシステムを自分で作ろうと思ったこともあるんだけど、これだけ膨大な商品の中を自在に泳いで調査するようなプログラムを書いたり動かしたりするのはとても面倒で手間がかかりそうだ。外注して誰かに作ってもらったりすればいくらかかるんだろうな?とか、考えていたこともある。
なので、今回村上総裁が作ったこのサイトは本当に文句なくすばらしいと思う。利用料が半年で2万円とのことだが、破格の安さだと思う。

 

ただ、それでも実際にアマゾン輸出をやるかどうか、ためらってしまう要素も多い。
というのも、アメリカのアマゾンに出品するのに必要な手続きが、非常にややこしそうな感じがする。まぁこれは一つずつステップバイステップでやっていけばなんとかできそうな気がするのだが、出品した後で、何かトラブルになった時に、きちんと英語で対応できるのかどうかというのも僕にとっては怪しい。
また、僕の場合、商品の在庫を自宅に置いたりしたくないので、日本のアマゾン⇒なんか転送サービス的なやつ⇒アメリカのアマゾンという流れで、商品を一度も手元に置いておくことなく直接流れるようにしておいて、後は自宅でパソコンから指示を出すだけで商売が回るような仕掛けにしておきたい。そこのところの仕掛けを作るやり方がよくわからなくて、悩んでいる。

 

もう一つ気になるのは、こういう商売がいつまでできるものなのかということだ。この間ちらっとネットで見た記事で、アメリカのアマゾンの商品が日本のアマゾンのサイトから直接買えるようになるらしいというものがあった。これって、もしかしてその逆もそのうちできるようになったりするんじゃないだろうか。
あと、そんなに儲かるんだったら、そういうことをなぜアマゾンが自前でやらないのかというのも不思議な感じがする。自分のところでがっちりデータは押さえているんだから、どんな商売の仕方でもやりたい放題のはずだ。

 

まぁ、そういう細かいことをいちいち気にしていても仕方がないので、とにかくスモールスタートでちょこっとだけ手探りでやってみようかなと思ったり、悩んだり、その状態を楽しんでいたりしている。

ネットで知り合った人との末路

僕は、過去のある時期に、ツイキャスにハマっていたことがあった。
他人の配信を聞いたり、自分でも配信をやったり、あるいは大勢でコラボ配信したりとかして、毎日のように遊んでいた。
当時からんでいた人は、10代〜20代の、僕よりもずっと若い人がメインだったように思う。彼らと話していると、本当に歯に衣着せぬやり取りをしてくれることが多く、とてもラクで、ニュートラルな気持ちになれた。なるほどこれがデジタルネイティブっていうやつなのかな?と考えさせられるようなことも多くあった。

こういう遊び方というか、他人とのつながり方があるものなのかと、すごい新鮮で驚いた気持ちで日々を過ごしていたように思う。
それでもだんだんとツイキャス自体に飽きてきて、そのうちやらなくなってしまうのだが、その頃に仲良くしていた人たちとも、必然的に関わることがなくなってしまうことになる。もともとネット上だけの関係で、お互い顔を合わしたこともない人たちばかりだったので、そうなってしまうのは自然なことだった。
けれども、ついこの間、ふと思い立って、その頃仲良くしていた友達の一人に、スカイプで話しかけてみたのだ。
話すのは一年ぶりくらいだったろうか。それでも全く距離を感じることなく普通にお話することができて、昔からのリア友のような感じで話すことができた。不思議な気分だった。

 

ネットで知り合った人との関係性って、ちょっと難しいところがある。
例えば、あるSNSで誰かと知り合って仲良くなったとして、それは、常にその人との関係が可視化されてしまうということを意味している。つまり、常に自分が現在誰とつながっているかというステータスがSNS上で一覧化されていて、なにかの拍子にそれが切れたりしてしまうことがあるのだ。
これの何が難しいかというと、何か気に食わないことがあった時に、もう私はあなたとは一切関わりませんよという意思表示が明確になってしまうのだ。ある意味、とても白黒はっきりした世界なのだが、こういう感覚って、SNS時代ならではだよなと思う。
リアルだったら、誰かに何か気に食わないことをされても、なんとなく避けているような雰囲気に持ち込んで、その人との関係をちょっと曖昧な感じでぼやかしておくといったことができるんだけど、SNS上ではそういう器用なことはできない。
ある程度仲の良かった人からいきなりSNS上で関係を切られてしまうと、とても悲しい気持ちになる。きっと僕が何かその人を傷つけるようなことを言ったりしてしまったんだろうけど、それでも、なにか自分がモノのように扱われているような気がして、とても悲しい。

 

ツイキャスで仲の良かった友達(スカイプでこの間話した人)とは、これからもお互いのことをどこかで気に掛け合いながら、ずっとその関係性は続いていくんだろうなと思うんだけれども、それって、ネットだとかリアルだとか、いくらプラットフォームが変わっても、それを超えたところでつながっているような感覚があるからで、つまりそういう人とは、ずっと切れずにつながっていられるんじゃないかなって思う。
考えてみれば、大昔からアマチュア無線とか、そういうツールを使ってずっと他人とのつながりを維持し続けている人たちもいるのだし、結局のところ、時代やプラットフォームに左右されない強いつながり・関係性というものはこの世界にたくさん存在しているんだろうな、と思う。

不気味な人間模様

先日、ぼんやりと新聞を眺めていたら、むむむ?と思いっきり首をかしげてしまうような記事があった。

最近ツイッター上でそこそこ拡散された、とあるツイートに関する記事だったのだが、さっき検索したら該当ツイートが出てきたので下に貼り付けておく。

 

 

難病を抱えた男性が優先座席に座っていたら、その姿を妊婦らしき人からスマホで動画撮影された。それがネットで拡散されて炎上したらマズイので、先手を打って先にツイッターで釈明しておくということらしいが、これを見た僕はとても不思議な気持ちになってしまった。

電車の中で動画を撮影しているこの妊婦らしき人の行動がそもそも謎だし、それを受けてネットでの拡散を防止する為に先手を打って先に拡散を狙うというその行為も同様に不可解だ。

まず、おまえら現場でよく話し合えよと思う。席を譲って欲しいなら、素直にそう申し出ればよいし、動画を撮影された側は、なぜそんなことをするのか問い詰めればよい。それが普通の常識を持った人間の対応なんじゃないのかなと思う。

おそらく、当事者間の心のなかでは、直接対話することによって対立状態に陥ってしまうのが怖くて、でもそれだと心の中のもやもやが解消されずに、それをネットに投げかけようとした結果こんなことになってしまっているんだろうけど、なんだかとても不健全なことをしているような気がするのだ。

 

その新聞の記事では、このツイートを取り上げて、「これがSNS時代に生きる現代人の生態です。」みたいな書き方で紹介されていたのだが、本当に最近の若い人たちってこんな感じなのかな。もしそうだとしたら息苦しいことになっているような気がするし、正直ちょっと不気味な感じさえ、してしまうのだ。

小説の学校に通う

僕は普段、自宅で時間のある時にはたいてい、映画を観たり、漫画や小説を読んだりして過ごしている。これは若い頃からずっとそうで、とにかく他の誰かが作った「物語的なもの」に触れている時間が大好きなのだ。常にそういった他人の創作物を消費することで、今まで生きながらえてきたと言ってもよいだろう。
そうしてある時から、そういった創作物を消費するだけではなく、自分でも創造することができたりしないものだろうかという思いが自分の中に溜まってきた。なんだろう、創作物を創造することができる人たちに対する憧れのような感情だろうか。自分も少しでも彼らに近づきたい、そういう気持ちが心の中心に常に居座るようになっていた。
映画や漫画を制作するのは無理でも、小説だったら文章だけの世界なので、自分にもトライできる余地があるのではないかとずっと思っていて、それでもなかなか創作の為のアイデアが空から降ってきたりすることはなく、何も書き始めることのないまま、今に至っている。

 

そうこうしている内に僕も、もう40歳も半ばになりつつあって、ちょっとここらで本気を出しておかないとまずいかな?という気持ちになってきている。やりたいことがあるのなら、無理くりにでも今の内にやっておかないと、体力や思考力はこれからどんどん低下していくだろうし、このまま何もしないまま寿命が尽きてしまうことがなにより恐ろしいと思う。
そこで、小説の書き方を指導してくれるような一般人向けの講座みたいなものがあれば、受講してみたいと常々思っていたのだが、このあいだぼんやりと新聞を眺めていたところ、そういう作家養成を目的にした専門学校の広告が出ているのが目についた。そこで説明会をやっているというので、先週末に実際に行って話を聞いてきた。

 

僕が書きたいのはエンターテイメント小説なのだが、その学校では「ジャンル小説講座」というのを開講していて、その講座の担当講師の方が説明会で話をするのを聞いてきた。これが、なかなか面白かったのだ。
ジャンル小説」の「ジャンル」とは、ミステリやSFやホラーや時代小説やらといろいろあるのだが、この講座では、各ジャンルの定型的な手法についてまず学ぶらしい。
ミステリだったら、まず物語の冒頭で「謎」が提示されて、その「謎」をああでもないこうでもないと主人公が解き明かしていくという、その流れの作り方について勉強しましょうということらしい。
他にも、小説を書く上での細かな要素について、その調べ方を教えますと言っていた。これはどういうことかというと、例えば小説の中で、警察を舞台にした場面を描こうとしたときに、警察組織の内部がどうなっているのかがわかっていないと細かい描写ができなくなってしまい、物語に説得力がなくなってしまうので、そういう具体的な情報を普段プロの作家はどこから仕入れたりしているのかについて、教えてくれるそうだ。

 

そういう小説を書く上でのテクニック的なことをまずは半年間かけて勉強した後で、残りの半年間で実際に自分で50枚の短編を書いてみるという、いわば実習のようなことをやっていくそうだ。これは、公募などでの新人賞に応募できる最低枚数が50枚からだそうで、そのレベルにまで到達することを講座の最終的な目標においているらしい。
なので、ここから先は、実際に小説を書く上でのアイデアの出し方や、プロットの立て方について勉強していって、最終的に50枚の成果物につなげていくという。
イデアについては、受講生は当然みんな素人なので、そんなに面白いものが飛び出してくるわけではなく、講師も最初はそれで全然構わないと言っていた。むしろ重要なのはプロットの方で、ここで最初の場面から最後の場面にいたるまで、どういうふうに物語が進行してどういう終わり方を迎えるのかまでをきっちりと設定しておいてもらうと言っていた。そうすることで、小説を書いている途中で嫌になって投げ出すことをできるだけ防ぐことができるという。


最後に講師の方が、小説家って、別にそんなにすごいことをやっているわけではなくて、普通に会社員が会社で仕事しているのとあまり違いはないので、誰にでもできることだと言っていたのが印象的だった。小説を書くということを特別なこととして捉える必要はなく、一つ一つの細かな作業を丁寧に組み立てて、全体として一つの作品として完成させるという、仕事的なものとして考えて気軽に取り組んでみて欲しいということなのだろう。

 

授業料も決して安くはないし、一年間という貴重な時間資源も投入することになるが、死ぬまでに1本だけでいいから自分の小説を書いてみたいというかねてからの僕の思いを達成するべく、思い切って来週からこの学校に通ってみることにした。
講座形式なので、たぶん一緒に受講する人もたくさんいると思うので、そういう人たちと一緒になって小説を書くという体験は、一人で書いているよりもずっと面白そうな感じがする。来週から楽しみだ。