坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

とうとうPSVRを買ってしまった

その昔、僕が小学生くらいの頃に「ゲームセンターあらし」というマンガが流行ったことがあって、当時からゲーマーだった僕はよくそれを愛読していた。
そのマンガでは、テレビゲームを通して悪と戦うという筋書きのエピソードが多かったのだが、ある話では、部屋全体がスクリーンになっていて、そこにホログラムを投影して遊ぶ巨大なインベーダーゲームが登場したり、あるいは超常現象のようなことが起こって、主人公の魂がゲーム機の中に入り込んでしまうという話もあった。
もう笑ってしまうくらい荒唐無稽な感じなんだけれども、それでもテレビゲームの黎明期から「ゲームの世界に入る」という行為は、ゲーマーにとっての一つの夢であり続けてきたわけだ。

 

そこでPSVRである。このゴーグルとイヤホンで自分の視覚と聴覚を完全に塞いでしまうことで、今まで夢だったゲームの世界の中にダイブすることが可能になるのだ。
「ロンドンハイスト」「アンティルドゥーン」「Rez infinity」そして「バイオハザード7」。
この流れでプレイしていって、僕は完全にVRゲームに心を奪われてしまった。
めちゃくちゃのめり込んでしまう。最高に爽快だし幻想的だし恐ろしいし楽しい。
ここでどんなに僕が拙い言葉を駆使しても、この楽しさを誰かに伝えることができないのがもどかしいのだが、あえて一言だけ言うならば、なんというかこれは、ゲームウォッチからファミコンに切り替わった時のようなパラダイムシフトを感じてしまうのだ。

 

けれども、よい面ばかりではなく悪い面もある。
酔うのだ。VR酔いというやつだ。
僕の場合は、先に挙げた最初の三本のゲームでは酔うことはなかったのだが、バイオで一気に酔ってしまった。
ゲームの世界を強制移動ではなく、自由移動できるのがどうもまずいようだ。身体は静止しているのに、視界だけが移動しようとするものだから、そのギャップに脳が悲鳴をあげているのだろう。
なので、VRゲームは長時間やっているとかなり疲れる。どんなに頑張っても連続二時間が限界だ。
まだまだもっとやりたいのに、へとへとに疲れてしまってこれ以上プレイできないという、ゲームをやっていてそういう心理状態になるのも久しぶりな気がする。ここまでゲームに夢中になれる余地が、まだ自分に残されていたのが驚きだ。

 

そして、皆さんがVRに最も期待しているであろう「エロ」なのだが、これについては以前に体験していたスマホVRとそんなに変わることはないというのが率直な印象だ。
スマホVRで観ていた動画をPSVRで観ることで、ちょっと視界が広くなって、画面が明るくなったような気がするが、そんなことよりもコントローラーで巻き戻しと早送りができるようになったのが非常にありがたい。まあこれが当たり前なんだけど。
ただ今回PSVRで、DMMではなくアダフェスというところが出している匠ブランドの動画を試してみたのだが、これがとてつもなくすごかった。
女優さんの体の小さなホクロとか汗のしずくとか髪の毛の一本一本が揺れる感じとか息遣いにいたるまで、はっきりと感じられて凄まじいくらいにリアルだ。
ただ、肌の荒れてる箇所とかまでリアルに伝わってしまうので、これは出演している女優さん達にとっては非常にシビアな世界になってきたなという気はする。

 

さて、ここまで話してきたことを簡潔にまとめると、これは明らかにゲームとエロの未来形だということだ。
マトリックスみたいに人間の脳に直接電気信号を送らなくても、目や耳などの感覚器にドライバをかますだけで、こんな刺激的な体験が手に入るのは、手術などのコストやリスクを考えると非常にお得だと思う。
いままでの品薄でなかなか手に入らなかった時期も終わり、ヨドバシとかで普通に買えるようになっているみたいなので、皆さんもぜひやりましょう。おすすめだ。

身体障害者を差別した日

あなたは普段、道端などで体の不自由な人を見かけた時に、どういう気持になるだろうか。
「なにか困っているようだったら、助けてあげないと…」
「こういう人たちが不便を感じないような世の中にしていかないと…」
たいていは、そんなようなことを考えたりするだろう。僕だってそうだ。
こういう気持ちというものは、一体どこから出てくるのだろうか。
子供の頃に、親や学校の先生からそういうふうに教わったから、そういう思想が自然と身についているだけなのだろうか。

 

その昔、20代も後半にさしかかった頃、僕はある女性とつきあっていた。相手の女性は僕より少し年上で、結婚に対してかなり焦りを感じている様子だった。
交際が深まるにつれて、当然のことながら、彼女から結婚して欲しいと頼まれた僕は、あまり深く考えずに「いいよ」と返事をしてしまった。
まずは両親に彼女のことを紹介しなければならない。実際に彼女を両親に会わせる前に、事前に彼女に関する情報を色々と両親に伝えることになった。
僕はまず両親に、彼女が自分より少し年上であることや、地元の短大を出ていて、今は小さな会社で事務職に就いていることなどを話した。
そして、話が彼女の家族のことにおよんだところで、だんだんと雲行きが怪しくなり始めた。
彼女には身体障害者の兄がいた。生まれつき足が不自由で、車いす生活を送っていて、定職にも就いていなかったのだ。そのことを話すと、父親も母親も眉をひそめるような表情になったのだ。
最初は何か言いにくそうな、考えこむような態度をとっていた両親だったが、だんだんときつい言葉が飛び出すようになってきた。
「そのお兄さんのことを、将来的に、おまえが面倒をみていくことになったらどうするんだ。」
「もしも遺伝の関係で、子供が障害をもって生まれてきたらどうするの?育てるのはものすごく大変よ。」
「体の障害だけではないだろう、きっと知能にも問題があるのではないのか。」
正直、今でもこの時言われたことを思い出すとつらくて、あまり詳しくは書けないのだが、どんどん両親の発言がエスカレートして止まらなくなっていった。彼女や、彼女の家族の人格を否定するようなことまで言い出す始末だった。
これはまぎれもなく差別だと、僕は思った。差別の塊だ。

 

結局、僕は彼女を両親に会わせることができなかった。
こんな暴言を吐く両親を、彼女に見られたくなかったのだ。とても恥ずかしかった。

 

あの時から僕はいまだに、自分の両親のことをよく思っていない。
親とは、そういうものだということは頭ではわかっている。子供に近づくあらゆるリスクを全力で排除しようと、時には命まで張ることもあるのだろう。
でも、僕はあの時、自分の両親には、ああいう言葉は言って欲しくなかった。
「将来的に苦労することになるかもしれないけど、私達に頼るなりして、頑張って欲しい」と、そういう感じできれいに流してもらえなかったんだろうか。
それは、冒頭で言ったようなキレイ事にすぎないのかもしれない。
現実に、差別は存在する。そして、結局は彼女と結婚しない道を選んだ僕も、両親と同類なのだろう。
身体障害者を差別した日のことを、僕は忘れることができない。これからもずっと。

インドの会社に勤めていた

僕は3年ほど前に、インドの企業の日本法人で働いていたことがあるのだが、その時に感じたことを、今さらではあるが書いてみたい。


そもそもなんで僕がインドの会社にいたのかなのだが、長年SI業界にいると「オフショア開発」という単語を耳にする機会が頻繁にあって、それがどんなものなのかちょっと興味を持っていた当時の僕は、謎のコネを使ってインド企業に潜入することに成功したのだ。
インドの会社とはいえ日本法人なので、社員はほぼ日本人ばかりで構成されているのかなと勝手に想像していたのだが、入ってみると社員の8割がたがインド本国から転勤してきている生粋のインド人ばかりだったのでビビった。
彼らとのコミニケーションは基本英語だが、僕はほとんど英語が話せない。そこで、通訳を担当するバイリンガルの日本人がチームに配属されていて、その人を間に挟んで彼らと会話することになる。
SIなので、基本的に客先常駐で勤務することになるのだが、開発チームの中でインド人10人くらいの中にぽつんと日本人の僕と通訳の人が紛れ込んでいるという、ちょっと今までとは勝手の違う環境での業務はとても刺激的だった。と同時に、戸惑うことも多かった。
以下、だらだらと感想を書いていく。

 

時間にルーズ

ミーティングの時間を事前に決めていても、その時間から始まることがあまりない。
遅れて始まるのならまだわかるのだが、結局やらずに終わってしまうことが多かった。
そういう時は、次の日になって、「昨日できなかったあの件のミーティングだけど、今日の15時から改めてやることにしよう。」と言われたりするのだが、その時間になってもやはり始まらずに流れてしまって、また翌日ループのケースにハマることがあったりする。
こういうのは日本企業に勤めていた頃はありえなかったので、かなり驚いた。
彼らは朝の出勤時間も結構いい加減な感じ(9:00の始業に少し遅れてくる。)だったので、これはやっぱりインドの国民性なのかなと思ってしまう。

 

頭がいいし、すごい前向き

ユーザーの業務アプリケーションの画面を触っていて、全て日本語表記で漢字とかも使われているにも関わらず、彼らはどの入力項目がどういう意味を持っているのかについて、完全に把握しているようだった。
漢字を使わない文化圏の人間が、漢字に慣れ親しむのは大変だと思うのだが、 彼らは頭がいいというか、とても勘が鋭いような感じで、なおかつわからないことがあってもめげずに前向きに理解していこうとするスタンスがあって、そこが素晴らしいなと思った。

 

フレンドリー

お昼ごはん用に、家で用意してきた弁当を持参してくるインド人がいたのだが、「君もこれを食え」とか言いながらチャパティをちぎって分けてくれたりすることがよくあった。「辛いだろう?」とか言いながら嬉しそうにしてる。
日本人って、大人になったらあんまりそういうことはしないのに、ものすごくフレンドリーだなーと思った。
向こうの食事はなんでもカレーの味がする。漬物とかでもカレー味。
あと、肉は絶対に食べないし、断食期間なのだと言って食事自体しない人もいた。宗教きつい。

 

飲み会が多い

これはなにか勘違いしているのかも知れないけど、客先の人間も含めた飲み会がやたらと多かった。
お客さんとも自社の人間とも仲間意識を強めて、うまく仕事を進めていこうということなのかな。
我々はクライアント企業に出入りしているただの一業者にすぎないわけだが、なにかそれ以上の関係性を構築しようとしているように感じられた。
僕は参加しなかったけど、お客さんも交えて山登りやUSJに行ったりしていたので、まぁそういうことなのだろう。
インド映画のラストで、敵味方揃って楽しくダンスして終わるというやつがよくあるけど、あんなノリなのかもしれない。これも国民性か。

 

通訳の人がいない時

契約の関係で、18:00以降は通訳の人が帰宅してしまうので、それ以降にインド人とコミニュケーションを取ろうと思うと、身振り手振りでやるしかなくなる。
正直これがとても辛かった。一日の終わりにさらにヘトヘトになってしまう。
やっぱり英語ができないとここでは生きていくのは難しいなと痛感させられた。

 

残業

入社前の面接で、「残業はしてもらわないと困る」と言われたのだが、労働契約書には残業手当は支払わないとはっきり書かれていた。これって労基的にOKなのだろうか?インドの法律だとこういうことは許されているから、その流れでこんなことになっているのかなと疑問に思った。
オフショア先のインド本国にいるメンバーと電話でミーティングすることがよくあるのだが、インド本国はまだ昼間でも、 時差の関係で日本では就業時間後であることが多く、この時間帯にミーティングすることが多かったので、必然的に残業が増える構造になっていた。
ちょっとこれは問題だなと思っていたけど誰にも相談できなかった。

 

自分の業務

オフショア開発なので、実際の作業はインド本国に投げることになるのだが、投げることのできるような作業はたいていルーティンワークばかりで、それ以外の非定型な、まぁちょっとやっかいな仕事は日本人である僕がやるという、そういう感じの分担になってしまっていた。

まぁ日本人のお客さんと細かい調整しないといけない場面で、インド人がでてくると間違いの元になるので、それは仕方ないのかなと。なので、どうしても難易度の高い仕事が僕にアサインされてくる。
クライアントの業務知識が皆無だった自分には、これもとても辛かった。

 

まとめ

インド人は頭がいいし、すごく前向きで、フレンドリーに接してくるところはとてもいいなと思った。
けれども残業の問題は今でも納得いかないし、英語が話せない自分にはコミニュケーションコストがかかるという非常にやっかいな問題があった。飲み会などの親睦関連行事が多かったりするのもかなりしんどかった。
なので、英語が普通に話せて、客先の業務知識に精通していて、定時後も無給でバリバリ働きたいという人にはオススメの職場だと思う。そういう人はもっとよい条件の仕事に就けばいいと正直思うのだが。

人はなぜ結婚式の写真共有サービスを作ってしまうのか?

先日、はてブを眺めていて「お、これは!」と思ったブログ記事があった。

結婚式の参列者がスマホで撮影した写真を、そこにいる全員で共有して閲覧できるようなアプリというかサービスを作ってみたというお話だ。

tomoima525.hatenablog.com

 

新郎自身が当日デバックしながら運用したという、信じられないような面白い記事だけど、これってなんか既視感あるなーと思って自分のブクマを検索すると、つい最近も同じようなことをやっていた方がいたのを思い出した。

それがこちら。プレゼン形式のスライドになっている。

speakerdeck.com

 

サーバーレス?というか最近のWEB技術ってさっぱりわからないのだが、とにかく今風の技術を駆使して苦労しながら作り上げた様子が伝わってきて興味深かった。

で、さらに自分のブクマを検索していると、なんと今から10年ほど前にも、同じようなサービスを作っていた方が出てきて思わず笑ってしまった。

marucc.hatenablog.com

 

まだスマホもなかった時代で、LAMP構成とかFLASHとか、懐かしい言葉がたくさんでてきて、僕のような年配者にはこちらの方がなんだか落ち着く感じがする。

 

さて、このように太古の昔から、数多くの技術者の手によって結婚式の写真共有サービスが作られ続けてきたわけだが、何を隠そう、この僕もこういうサービスを作ってみたいと思っていた時期があったのだ。

その昔、ブライダル関係の会社に勤めていた僕は、会社として、こういう感じの写真共有サービスを作って運営してみたらどうかなと、頭の中で勝手に夢想していた。

用途は非常に限定されるのだが、使い勝手の良いサービスであれば、必ず利用してもらえるはずだと思ったし、写真の共有先の画面にさりげなく自社の広告が出るようにしておけば、自社の宣伝として非常に有効なのではないかと思っていた。このサービスのユーザーは、まず間違いなく結婚適齢期の男女が数多く含まれているはずだからだ。

 

しかし当時勤めていた会社は、とても貧しくお金のない会社だったので、そんな企画が通るはずもなく、また日々の多忙な業務に押し殺される形で、僕のこのアイデアは結局日の目を見ることはなかった。

今やブライダル業界は斜陽産業と呼ばれて久しいが、そんな中で画期的なWEBサービスを世の中に提供することで、自社や業界の復活につなげていったりだとか、まあそういったことがやりたかったんだけど、できなくて悔しかった気持ちが、後悔としてずっと今も残り続けている。

ペットと暮らすということ

estar.jp

最近ずっとこの漫画の連載を読むのがつらかった。
この猫(とらじ君)が亡くなるということがはじめからわかっているだけに、いつその瞬間がきてしまうのかビクビクしながら毎週連載を追いかけていたような気がする。
そして先週の回でとうとう…
悲しいけど何度も読んで、泣いてしまう自分がいた。

 

僕は子供の頃、にわとりを飼っていた。夜店の屋台で売られていたひよこを一匹もらい、家に連れて帰ってきてそのままずっと飼っていたのだ。
とても大事にしていて、かわいがっていたし、にわとりも僕になついてくれていた。
僕の行くところには、どこまでもついてこようとした。心が通じ合っているような感じがあった。
子供時代の僕は、そのにわとりのことを学校の作文に書いたものが高く評価されて、何か大きな賞みたいなものを貰ったことを今でも覚えている。
大事なにわとりだった。でも5年ほどで亡くなってしまった。
にわとりを亡くした当時の僕は、まるで抜け殻のようになってしまった。そしてその時の傷はその後もずっと癒えることなく、なにか欠落感みたいなものを心に抱え続けたまま、その後も僕は生き続けることになる。

もう二度とペットは飼わない。そう決めていた。

 

それから20年ほどたって僕は、猫好きの女性と結婚した。新婚当初から妻が猫を飼いたがったので、ネットで見つけた里親募集中の子猫を一匹もらってきて、二人で飼い始めることにした。
僕の方は猫を飼うのは初めてで、結構手が掛かるし大変だなと思うことはあったけれども、幼い頃から抱えていた心の中の欠落感を、大人になって猫を飼うことで、それがほどよい感じで満たされていることに気がついた。
そこに欠落感がまだあったんだということを、20年ぶりに思い出さされたというか、思い出さされながら同時に埋めていってくれているような、僕にとって猫はそういう存在なのだ。

 

つまり、ペットと暮らすということは、そういうことなんだと思う。
生き物は、いつかは亡くなる。それが嫌で、その事実から目を背けようとして、もうペットは二度と飼わないと決心している人もいるだろう。でも、ペットに先立たれることで自分の中に芽生えた欠落感を、また新たなペットの存在が、確かに埋めていってくれることもあるのだ。
ペットの側からしても、人に飼われることで、食と住処以外の部分で満たされていると感じることは確かにあるだろう。
そうやって、足りないものをお互いに補い合いながら、これからも僕はペットと暮らしていくのだ。

ウォールクライミングをやってきた

前から興味を持っていた、ウォールクライミングにチャレンジしてみる機会があったので、やってきた。

大阪府民の森というところの屋外に、ウォールクライミングの施設があって、そこで事前予約して2500円払うと、初心者体験講習会というものに参加できる。

ライミングには、ハーネス(腰に装着して、ここに命綱をつける)とクライミングシューズが必要なのだが、これらは現地で貸してもらえるので、普通の服装で手ぶらで行っても全然大丈夫だった。

 

講習会の流れだが、まず最初にウォーミングアップ的な体操を全員でやって、その後、登る際の注意点などについて簡単な説明を受ける。

準備的なものはそれだけで、あとは実際にクライミングの実践に入っていく。

 

最初はまず、初心者用のコースから攻めてみることにした。

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登る時は、命綱を握って指導してくれるスタッフがマンツーマンでついてくれるので、特に不安は感じなかった。

けれどもこれ、他の人が登っているのを下から眺めている分には全然楽勝に思えるのだが、いざ自分の順番が回ってくると、かなり勝手が違うことに気付かされる。

僕は最初、登り始めて10秒後に、掴んでいたでっぱりから手を滑らせてしまって墜落してしまった。命綱がなかったらこの時点で大怪我をしていただろう。

これはなかなか手強いなと思い、ふんどしを締め直して再チャレンジしてみたが、自分の身長ほどの高さをちょっと超えて登ったくらいで、すでに握力が限界に達してしまった。

足元に目を移すと、結構高くまできているように感じてしまって、ちょっとした恐怖感が芽生えてくる。足を乗せているでっぱりも、かろうじてつま先がひっかかるくらいの小さなもので、非常に心もとなく、ここで精神的にかなり不安になってくる。

うーん、これはちょっと厳しいなと判断してギブアップ。「テンション!」と叫ぶと、スタッフが命綱を操作して、下まで僕を下ろしてくれる。

初心者用のコースでこんなに難しいのかと、絶望させられた。

 

そして次に僕は、何を思ったのか無謀にも、中上級者向けの壁にチャレンジしてみることにした。

それがこちら。

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写真を見ていただけるとわかる通り、かなりの高さだ。ビルでいうと3~4階くらいの高さになるだろうか。あそこまで登ればかなりの恐怖感があるだろうが、その時の爽快感はすごそうだ。

それにこのコース、ちょっと癖があって、壁が垂直ではなく、少し反り返っているのだ。SASUKEで山田が苦しめられた「反り立つ壁」みたいな感じで、それが頂上にいくまでに三ヶ所くらい用意されている。

もちろん僕がチャレンジした時は、最初の反り立っている箇所で握力がプルプル限界にきて、すぐに下ろしてもらった。

そこでスタッフの方にいくつかアドバイスをいただいたのだが、この競技は手の力で登るのではなく、足の力がメインで登っていくものらしい。先に足場を固めて、両手はあくまでサポート的な感じで使っていくのが正しいらしい。

そして、正面から壁に張り付くのではなく、体の横を壁面につけて登っていく方が楽に登れるそうだ。

 

その後、再び初心者用の壁に戻り、チャレンジしてみるも、中ほどまで登ったところで、進むべき方向を見失ってしまい、詰んでしまった。次にどこを掴んだり足をかければよいのかが、完全にわからなくなってしまったのだ。登り進めていくと、視界はかなり限られてくるし、下で俯瞰的に見ていた時のような感じにはなかなかならないものだ。

まったくこれはなかなか奥が深い競技だと思う。最初はシンプルなアクションゲームだと思ってやり始めてみたら、実は高度な戦略性が問われるパズルゲームだったという印象だ。

 

結局、講習の2時間ほどの間で、3回クライミングにチャレンジしてみたが、どれもほとんど上まで登れずに終わってしまった。けど、実際にやってみることで色々な気づきがあってなかなか楽しかった。

次の日は、体のありえない部分が筋肉痛になっていた。普段全く使っていない箇所の筋肉を瞬間的に酷使してしまったのだろう。

またやってみたいけど、もう少し簡単なコースで地道に練習をつんでから挑みたいような気もする。というわけで街中にあるようなボルダリングジムに通ってみることを検討中である。

この競技は、次のオリンピックで正式種目に採用されたということで、なんか時代がきつつあるのかなという気はしているので、みなさんにもおすすめです。楽しいのでぜひやりましょう。

早すぎたインターネット

もうあまり知っている人なんていないんだろうけど、大昔のインターネット(90年代後半くらい)って、とてもおおらかで牧歌的で、怪しくて楽しかったなーということを、今でもたまに思い出すことがある。

 

今ではなにかのWebサイトを探したりする時には、必ずと言っていいほどグーグルなどの検索エンジンを利用すればたどり着くことができるが、大昔は、自分の興味のあるサイトを探す手段が非常に限られていたように思う。
その頃の僕は、書店で見つけた「裏インターネットの本」というムック本を入手してきて、日々夢中になって読みふけっていた。いや、読みふけっていたというより、その本に紹介されているサイトのアドレスを片っ端からブラウザに叩き込んでは、表示されるサイトを読みふけっていたのだ。
面白そうなサイトを見つけると、そこで紹介されているリンク集に、さらに面白そうなサイトがわんさかと紹介されているものだから、そこからまた別のサイトに移動して、そこのリンク集からまたその先へ、とそんなことを何度も繰り返しながら色々なサイトを次々と見つけていった。今のグーグルが機械的にやっていることを、手動でやっていたわけだ。
当時のヘビーなインターネットユーザーなら誰もが加入していたテレホーダイというサービスを僕も使っていたので、夜の11時になるとネットにつないで、あちこち巡回していたらあっという間に明け方になっているというようなことがよくあった。
よく、覚せい剤などのドラッグを使っていると、時間の感覚が吹っ飛んで一瞬で何時間も経過してしまったような気分になれるというが、僕にとって当時のインターネットはまさにそんな感じだった。危険だった。怪しかった。でも逃れられなかった。


そんな風にして発見したサイトの中では、「ハイパーノイヅ」というホームページが、お笑い系としては秀逸で特に面白かった。
侍魂」などのテキストサイトが話題になる何年も前に、ああいう文字の色やサイズや間隔を工夫して、テキストだけで笑いをとっていくというスタンスを確立させていたサイトが、もうすでに存在していたのである。
「インターネット史上初のHTMLドッキリ企画」と称して、エヴァンゲリオンのオタクを装ったニセサイトを別に作成し、そこに集まってきたコアなオタク達の様子を詳細に観察するなど、今でいう高度な「釣り」をやってみたりと、時代の最先端をいっていたように思う。
dAisukeという名前の無職の若者がやっていたのだが、本人はただ面白そうなことを思いつきとノリで適当にやっていただけなのだろう。けれども、今にして振り返ってみると、その後のインターネットに多大なる影響を与える可能性があったんだけれども、あまりにも早すぎてうまく影響が伝わることがなかったのが残念な気がする。


他には、「全世界征服おまぬけ電波系計画」という、歯科医の方が運営していたホームページが印象に残っている。
色々と怪しげで楽しいコンテンツが揃っていたような気がするけど、残念ながら中身はあまり覚えていない。
では、なぜ印象に残っているかというと、ここの掲示板の雰囲気がとてもよくて、常連さん達の書き込みを毎日眺めていたからだ。
ある時、その掲示板に、僕がやっていたホームページのURLが貼られて紹介されているのを目にした時は思わず笑ってしまった。インターネットって広い世界なのに、ニッチな趣味嗜好で村の寄り合いみたいな世界を構築していくと、必然的に似た者同士でひかれあうものなんだなと思った。
普段、他人の掲示板に書き込みなど滅多にしない僕も、それからその掲示板にだけは気軽に書き込んだりするようになっていった。

 

あと、これは個人ホームページではないのだが、「この指とまれ」というサービスがあった。
インターネット上で学生時代の同窓生をみつけましょうというコンセプトのサイトで、使い方は自分の卒業した学校と卒業年度、実名とメールアドレス、あとは、一言自己紹介みたいなものを登録しておくと、それらがネット上に公開され、それを見た同窓生から連絡がくるかもしれないというものだった。
今にして思えばネット上にそんなものを公開状態で置いておくなんて正気の沙汰ではないのだが、そこはおおらかな時代だったのだと思う。今では考えられないことを平気でやっていた。
僕も登録してみたら、一度だけ高校時代の友達からメールが来たことがあったが、あまり関わりあいになりたくない相手だったので、無視した。人生初の既読無視である。こんな風に手軽に昔の友達がみつかったり、その事実を華麗にスルーできたりと、ネットってやっぱり便利だなと思わせられる出来事だった。
今ググッてみたのだが、このサービスは今も存在していて、しかもセキュリティを強化した会員制サイトになっていた。そういえば一時期、暴力団フロント企業が運営しているとか黒い噂が流れたこともあったような気がするのだが、いったいどうなっているんだろうか。

 

他にも、サービス系では「あやしいわーるど」という掲示板が懐かしい。
「しば」という人物が運営していた、アングラ的な話題を扱う掲示板だったのだが、とにかく怪しげな話題はここに目を通しておけばオッケーといった感じだった。当時の僕は、実際に書き込んだりするのはちょっと敷居が高いような気がしたので、ひたすら眺めていただけだった。
度々荒らされてその度に移転を繰り返していたような気もするけど、最後に「マグマニア」という別のコンセプトの掲示板を始めて、それもすぐに閉鎖して、その後の足取りはわからない。
あやしいわーるど」の流れをくむ派生掲示板が多数できていたようだが、今はもう残っているものは一つもない。

 

あれから20年近い月日が流れ、個人ホームページの代わりにブログを見るようになり、昔の友だちとはフェイスブックでつながり、怪しげな情報は2ちゃんねるから取得するようになった。けれども20年前と今とで、やっていることは基本的には変わっていないような気がする。
これからどんどん時代がながれて、新たなコンテンツやサービスが登場してきても、20年前のあのサイト郡の雰囲気はいつまでも忘れることなく僕の記憶に残り続けていると思う。

僕にとって、インターネットに触れる時に感じるワクワク感の原体験であるからだ。