坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

飲み会を憎んでいた

僕はかつて、「飲み会」を憎んでいた。会社とかでよく催される、あれである。
僕が若い頃に勤めていた職場では、「飲み会の幹事をそつなくこなすことができるようになって、初めて一人前だ。」という空気というか、文化のようなものが流れていて、誰一人それを疑っていなかった。
その職場で新人だった頃の僕は、毎月のように開催される飲み会の度に、出欠取りや会費集め、当日の司会進行などをやらされることになる。
学生時代の飲み会とは違って、職場での飲み会は少しも楽しくはなかった。料理は全然食べることができないし、年配の人達のくだらない話につきあわなければいけなかったし、それでも安くない会費だけはきっちりと取られるし。
そんなだったので、イヤイヤやっていた僕の態度が周囲からは透けて見えていたのだろう。当時の上司や先輩が相談して、「飲み会幹事を鍛える為の飲み会」を毎月開催しようという話になり、その幹事を僕が任されることになった。
飲み会幹事の為の飲み会だって?正気とは思えなかった。
もはや何の為にこんなことをやっているのか全くわからなくなってしまった当時の僕は、どんどん疲弊していった。

 

やがて僕も少し歳をとって、そういった飲み会の席での幹事を任されることはなくなった。
それでも僕は、職場の飲み会に対するイヤなイメージが頭からこびりついて離れず、参加すること自体がストレスになっていた。
でも、全員が参加しなければならないという上司や先輩からのプレッシャーは強く、それらをストレートに跳ね返すことは難しかった。
そこで僕が考えたのは、飲み会の出欠確認の際に、「出席」にしておいて、参加費用もきちんと払い、飲み会当日になると無断で欠席して帰宅するという作戦だった。
そういうことをやると、職場からは浮いた存在となってしまうことがわかっていたにも関わらず、あえて僕はそういうことを繰り返した。
金を払ってでも、飲み会には行きたくない。そういう姿勢を周囲に向かってアピールすることで、僕はこの組織に根付いた文化にアンチテーゼを叩きつけているつもりだったのだ。
この行為は、上の方の人達の間で結構問題視されていたらしいのだが、かといって面と向かって僕に「そういうことをするのはやめろ」と言ってくるような人もいなかったので、僕はしばらくそれを続けた。
やがて僕も、そんなことをいつまでもやっているのがばからしくなってきたので、飲み会の出欠確認にはきちんと「欠席」で返すようになった。それで周囲からは何も文句は言われなくなった。これでいいのだと思った。

 

それから長い年月を経て、中年になった今でもそれは続いていて、僕は滅多なことでは職場の飲み会に参加することはしない。
昔と比べて、飲み会に対する憎悪や嫌悪感は薄れている。しかしそのかわりに、純粋に疑問として残っていることがある。
そもそも僕は、飲み会をやる意味がよくわからないのだ。
まず大前提として、会社には仕事をしにいっているということがある。仕事をして、報酬を得る。それ以上でも以下でもない。
別に友達や恋人を作りにいっているわけではないのだ。
むろん、仕事を通じて、友情なり愛情なり育むことができたら、それはそれでいいことだと思う。
だが、職場でのイベントを通じて、あえてそれを促すようなことをやる必要ってあるのかなというところが、ずっと疑問なのだ。
そんなこと気にせずに、もっと気軽に参加すればいいのにと思われるかもしれない。
でも、できないのだ。
若い頃に経験してきた苦い記憶のせいで、それは今ではすっかりややこしいものになってしまっているのだ。
それを考えると、いつもとても残念な気分になってしまう。

人生の輝き

僕は昔、無職だった時期に、介護ヘルパーの資格を取る為に専門学校へ通っていたことがある。今から5年ほど前のことだ。
その学校へは、ハローワーク職業訓練制度を利用して無料で通っていたのだが、当時そこで一緒に勉強をしていた人達と今でも交流があって、たまに飲みに行ったりすることがある。
彼らと再会する度に、お互いの近況を報告し合うことになるのだが、最近そこであまりいい話を聞くことが少ない。

 

50歳を過ぎて、勤めていた会社をリストラされて無職だったAさんという人がいる。
Aさんは5年前に専門学校を出た後から、近所のスーパーで品出しのアルバイトをずっと続けていたらしい。スーパーの品出しのアルバイトというと過酷なイメージがあるが、それを50代からやり始めて5年ほど続けてきたという。なかなか根性のある人だなと思う。
しかし、最近そのスーパーを解雇されて、また無職に戻ってしまったとのこと。Aさんはもう今年で60歳になるそうで、そろそろ隠居生活に入ってもよさそうなものなのに、奥さんとお子さんのことを考えると、まだまだ仕事は続けなければならないらしい。

 

旦那さんから受けたDVが原因で離婚していたBさんは、女手一つでお子さん二人を育ててきた。
5年前に専門学校を出た後は、介護施設でヘルパーの仕事をずっと続けていたが、2年ほど前に乳がんが見つかり、すぐに手術をして取り除いた。しかし最近、がんが骨に転移していることが発覚し、余命3年の宣告を医者から出されたらしい。
Bさんのお子さん二人は、最近成人を迎え、もう経済的にも自立されているとのことで、そこだけが唯一の救いなのだが、それでもこれからようやくのんびりと自分の人生を送ることができるとほっとしていた矢先に、そんなむごい宣告を受けて、とても気の毒に思う。

 

5年前に専門学校を出たあと、理学療法士になることを目指して別の専門学校に通っていた40代のCさんという人がいる。
昼間は介護関係のアルバイトをしながら、夜間の専門学校に通って、そこを卒業するまでに4年ほどかかるらしいのだが、40歳を過ぎてなにかになろうとして新たに勉強を始めるなんていうことは、普通の人にはなかなかできることではないと思う。
僕はそんなCさんのことが気になってずっとどうなるのか様子を見守っていたのだが、最近になって病気の弟さんの介護をする為に、しばらく学校を休学していたことがわかった。その弟さんも先月亡くなったために、これから自分はどうしていこうか考え中とのこと。

 

AさんもBさんもCさんも、5年前の無職だった頃に、なんとかして自分の生活を立て直そうとして、僕と同じ専門学校に通っていたのだが、その後一見すると生活が安定軌道に乗っていたように見えて、やはり時間が経つと色んな所にほころびが出てきて、結局また苦しんでもがいているような感じになっている。
みんな40代から50代の人達ばかりなのだが、そのくらいの年齢になったら、男性なら普通に会社勤めをして毎月安定したお給料を貰っていて、女性だったらたまにパートをしながら家事に専念するといったイメージが強いが、なかなかその通りになっている人ばかりではないのだということを思い知らされた。
それでも、彼らのことは傍らで見ていて、とても立派だと思うし、よく投げ出さずにやっているなと感心する。
その生き様はとても美しいと思うし、輝いている。
そうやって懸命に生きている人達の姿を、これからも僕は真剣に見守っていきたいと思う。

生活保護の受給者に思うこと

知り合いに、生活保護の受給者がいる。

その人の年齢はだいだい僕と同じくらいなのだが、複数の持病を抱えている為に定職に就くことができずに、もう何年もの間、国から生活保護の支援を受けながら、自宅でゴロゴロするだけの暮らしを送っている。
彼に将来の夢を尋ねると、「生活保護の制度がこのまま変わらずに、支援が未来永劫続いてくれること。」だと胸を張って答えてくれる。
なんというか、こういうのを見ると、ものすごくモヤモヤしてしまう。
テレビや雑誌などのメディアで生活保護制度が取りあげられる度に、こういう感じの人が最近すごく増えているという情報を目にするのだが、実際にお目にかかったのは初めてだったので、なんだか色々と考えさせられてしまった。
確かに、こういう人が一念発起して、コンビニなどでレジ打ちのバイトを始めたとしても、月に15万円も貰うことができるかどうかといったところだろう。もうそれだったら仕事なんて何もせずに、このまま今の状況に甘んじてしまうのが自分にとってはベストな選択だと判断してしまうのも無理はないと思う。
それよりも僕が問題だと感じるのは、彼と接していて一番強く感じることが、「自分の力でなんとかしようとする気力」が彼の中に全くといっていいほど存在していないということだ。
何か身の回りで問題が起こった時に、それを自分で解決しようとすることはせずに、あくまで人頼みで、自分に手が差し伸べられるのをただひたすら待っているだけなのだ。もしかすると、他人を自分のために利用することしか考えていないのかもしれない。そんな印象すら受けてしまう。
その根底には、自分は不幸な身の上なのだから、社会から支援を受けて当然なのだという考え方がにじみ出ていて、彼のそういう姿勢をみると、なおさらモヤモヤに拍車がかかってしまうのだ。

 

話はちょっと変わるが、僕の別の知り合いで、かつて生活保護を受給していた経験を持っている人がいる。
その人は、妻一人子一人を抱えている同年代の男性で、フリーランスのITエンジニアをやっている人なのだが、ちょうどリーマンショックが起きた頃に、受注できる仕事が激減してしまい、その日食うにも困る状況に陥ってしまったそうだ。
その時期に、やむなく生活保護を受給していたそうなのだが、彼はその後、奮闘の甲斐もあって仕事が元の状態に戻り、支援を受けなくてもやっていけるくらいにまで立ち直ることができたらしい。
僕が思うに、生活保護というものは、こういう使い方をするのが正しいのではないだろうか。
どうしようもなく生活が困窮してしまった時に使える最後の支援手段として活用し、しかしその支援に100%頼り切ってしまうのではなく、そこから這い上がっていこうとする気概のある人に向けたサポート手段であるべきだと僕は思う。

 

だが、今の制度のままだと、先に挙げたような、「現状に甘んじてしまうだけの人」が増加していく一方だろうと思う。
そこで、生活保護には期限を設けることにした方がよいのではないかと思う。その期限を超えて利用している人には、支援を打ち切るのではなく、制度の適用を若干変えていくようにすればよいと思う。
例えば、3年以上受給し続けている人に対しては、家賃の援助を打ち切るのだ。そのかわり、その人達に対しては国が住む場所を提供し、4人部屋のようなところで生活してもらうなど、最低限の住環境は保証するようにすれば問題ないのではないかと思う。
そうすることで、受給者自身に対して、「このままではまずい」という危機感のようなものを植え付けることができるだろうし、それを機に、自立に向けたアクションを起こす人も出てくるのではないだろうか。
ちょっと極端なことを書いてしまったので、もしも生活保護を受給している人がこれを読んだら非難轟々だろうが、そろそろ制度を期限によって見直していくという視点を取り入れてもよいのではないかと真剣に僕は思っている。
でないと、冒頭で述べた彼の今後の人生が、残念すぎるような気がして仕方がないからだ。

VRの中で生きていきたい

去年あたりから、VRVRと世間で騒いでいて、自分もプレステVRをやってみたいなとずーっと思っていたのだが、現時点でもまだまだ入手困難な状態が続いているようで、全く市場に潤沢に出回る気配がない。
そこで、スマホをセットして使うVRゴーグルというものがあるけれども、あれってどんな感じなのかな?と、ふと気になって色々調べてみたところ、とりあえずVRがどんなものなのかお試し的に体験してみるにはちょうどよいものであるらしい。値段も2〜3千円から手に入るとのことで、それなら迷うような価格でもないので、とりあえずアマゾンでポチしてみた。
ゴーグルが家に届くまでの間、VRでいったい何を観てやろうかと色々探してみたのだが、そこはやっぱりエロでしょう。まずは、人間の欲望と最もダイレクトにつながっている分野で、どんなものなのか試してみるのが一番わかりやすいのだ。

 

そんなわけで、DMMでVRエロ動画を漁ってみた。
VRなので、当然どの作品も主観視点の映像になるのだが、実は僕はこの手のコンテンツがとてもとても好きなのだ。エロではない普通の映画でも、「REC」とか「クローバーフィールド」などのPOVモノは大好物だし、ゲームでもFPSは黎明期の頃から相当やり込んできている。
ただでさえ好きな主観モノのコンテンツが、VRゴーグルによってブーストされたら、いったい僕はどうなってしまうのだろう。そんなことを考え、ワクワクしつつDMMのサイトを物色していると、「王様ゲーム」をテーマにしたAV作品に目がとまった。異常に評価の高いその作品の視聴者レビュー投稿に目を通してみると、『主演の女の子のことが好きになってしまいました。 』 とか、『最後まで見終わってゴーグルを外す時の現実に引き戻される感覚が悲しくてたまらなかった。』 とか、オイオイこいつら大丈夫なのかよと思ってしまうほどに、マジで心ごともっていかれてしまっているような感想が並んでいた。
視覚と聴覚からうまく脳をハックして人間を騙してしまうのがVRだと思っていたのだが、この界隈のユーザーの意見を眺めていると、すでに人間の精神にまで侵食してきているような気がして、なんというかこれはもうますます期待が高まってしまうではないか。
なんでも件の作品は、二時間の前振りシーンと、一時間の本番シーンで構成されているらしい。
これはどういうことなのだろうか。よくドラマ仕立てのAVを観るときに、いつも早送りで飛ばしている部分が二時間も続いて、その後に本編が始まるということなのか。しかし、レビュー投稿によると、どうもこの前振りの部分が非常によくできているらしく、ここで主演の女の子二人と王様ゲームをしているうちに、こちら側の気持ちがぐっと入り込んでいってしまうらしい。
そんなこんなで、この作品にとても興味がわいた僕は、買ってみることにした。

 

ほどなくしてVRゴーグルが自宅に届き、スマホをセットしてさっそく観てみた。
映像が始まる。どうも自分の部屋に、男友達が街でナンパして捕まえた女の子を連れてきたという設定らしい。
初めてゴーグルを装着してみた感想は、レンズを通して立体の世界を覗き込んでいるような感じが強く、それほど没入感というか、その場所に自分の身体が入り込んでいるという感覚は薄いように思った。
それでも、女の子がこちらに目を向けて話しかけてきた時には、ちょっとドギマギしてしまった。若い女の子と目があって、そこから声が聞こえてくると、男の本能的な部分が揺さぶられるような感じがするのかな。
しばらくすると、4人でお酒を飲みながらの王様ゲームが始まって、ここから色々と軽いタッチのエロが始まるわけですよ。
途中で何度か、女の子の顔がこちらに向かって近づいてくるシーンがあって、そこでやけにリアルな臨場感を感じてしまった。普段そんなに人の顔が目の前に近づいてくることなんて滅多にないので、これにはちょっとヒヤヒヤさせられてしまう。
他にも、女の子に耳元で囁かれるところでは、息遣いが身近に感じられて自分の耳がこそばゆくなってきたりして、ゆっくりとではあるが着実にVRの世界に没入し始めている自分に気づいた。
王様ゲーム終盤で、自分の股間を弄り回されている場面で、首を下に向けて自分の股間を覗き込むと、女の子の手が自分の股間を弄っているのが見えて、この「首を下に向ける」というアクションが、脳を騙すのに一役買っているのかなと思った。
そして肝心の本番シーン。これが素晴らしかった。主観視点なので、騎乗位がメインになってくるのだが、首を動かして見上げると、喘いでいる女の子の顔が目の前にあって、正面に視線を戻すと揺さぶられる胸が見える。やはりこの、「視点を動かすことによって世界を認識する」という行為が、没入感に繋がっているのだろう。

ここでは自分の心臓が高鳴っているのがわかり、本当にVRの世界に自分の身体が溶け込んでいってしまっているかのような錯覚を味わうことができた。

 

いやーこれはもう戻ってこれなくなってしまうね。
これから、VR世界の女性に恋をしてしまったりとか、もう現実の世界なんて必要ないと考えてしまうような人が出てきてもおかしくないのではないか、そんな危険な未来を感じさせられてしまう体験でした。
もっと技術が進んで、全身を覆うようなスーツで触覚を再現できたり、鼻や口に装着することで匂いや味なんかも再現できるようなデバイスが登場したら、容易に僕たちの五感なんてハックされてしまいそうな気がする。
とにかく、これは今のところ4千円程度で体験できる非日常なので、この記事を読んでいるみなさんにはぜひ試してみていただきたい。
僕はプレステVRで、さらに一歩先を目指そうと思う。

無職のつらさ

みなさんは今までの人生の中で、無職というものを経験したことがあるだろうか。

僕は40歳を過ぎてから、1年ほどだが会社などの組織に所属せずに、ただ家で毎日ゴロゴロしていた時期がある。

 

無職の生活を始めた最初の頃は、毎日あくせく働かなくてもよいなんて素晴らしいことだと思っていたが、そんな生活を半年ほど続けていると、しだいにぼんやりとした焦燥感のようなものに気持ちが晒されていくことになる。
この「焦燥感」について細かく分析してみると、これには大きく分けて三つの要素が含まれていると思う。

 

まず一つ目は、「退屈」だ。
とにかく毎日時間が有り余っていて、持てあましてしまうのだ。
観たい映画や読みたい本なども、そうそう次から次に自分の目の前に現れてくれるわけでもない。
日々、なんとなくパソコンやスマホをいじっていて、眠くなったら昼寝をして、目が覚めたらまたパソコンの前でぼんやりしてという生活を繰り返している内に、どんどん自分が人として間違った方向に進んでいるのではないかという気持ちにさせられて、焦ってくるのだ。

 

二つ目は、「孤独」だろう。
家族がいればまだなんとかなるのだが、もし一人暮らしの人が無職になってしまったら、それこそ朝から晩まで一日中誰とも口をきかずに過ごすことになってしまう。
これもやはり相当つらい。他人と繋がっているという感覚が得られないと、人はおかしくなってしまうものなのだ。

 

そして最後は、「貯金が目減りしていくこと」だ。
無職の間は当然、収入がなくなってしまうので、その間は貯金を取り崩して生活していくことになる。
これが地味にジワジワと精神的な恐怖感を与えてくれるのだ。
命が削られていくのが数字として常に見えているような感覚と言えばわかってもらえるだろうか。このプレッシャーに耐えられる人はなかなかいないのではないかと思う。

 

以上三つが、無職でいる時期に僕が味わっていたつらさの正体だと言える。
こういうことを考えていると、かのphaさんが昔どこかで「無職でいる為には特殊な才能が必要だ。」と話していたのを思い出す。
これは、無職の状態をキープするには、並大抵の精神力では持たないということなのだろう。

 

今の僕は普通に会社勤めをしているので、この種のつらさや焦燥感からは逃れることができているのだが、実はこれとはまた別の観点から怖いなーと思っていることがある。
それは、これって会社を定年退職した後の、老後にやってくるつらさとほぼほぼイコールなのではないかということだ。
僕のような、会社と家庭の往復だけで日々過ごしている人にとっては、その生活から抜け出した後に待っているのはまたあの、「退屈」で「孤独」で「貯金が目減りしていく」だけの日常になってしまうことが予想される。
これはやはり相当まずいのではないかと思う。

 

そうならない為に、あらかじめ予防線を張っておく必要があるなと最近強く感じている。
会社と家庭以外にも、なんでもよいので自分の所属できる居場所をつくっておいたり、本当に貰えるのかどうかよくわからない国の年金以外にも、なにか別の形で収益を得ることができるような仕組みを作っておく必要がある。
これは本当に、今のうちから危機感を持って対策をとっておかないといけないなと思う。

ブログに書けない話

ブログを三ヶ月も更新していない。

 

このブログでは、僕がかつて経験したことや、その時に考えていたことなどを、当時の風味をできるだけ損なわないようにして、ありのままを再現して読者に伝えていくということを意識しながら書いてきた。
でも、そうやって自分の内面を切り取っては貼り付けてという作業を繰り返すうちに、自分の中の最もダークな部分に行き当たってしまうことがあって、その部分を文章化しようと奮闘している内に、ポキリと気持ちが折れてしまうことがある。

 

くやしいのだが、どうしても書けない話というのはあるものだ。

 

今年の春くらいから、そういう類の話を書き始めては挫折してというのを、何度か繰り返している。
とは言っても、それらは別にたいした話ではない。大学を出て新卒で就職した会社を一ヶ月で辞めてしまった話だったり、結婚の約束までしていた恋人と別れることになってしまった話だったり、どこにでも転がっているような、よくある挫折話なのだが。
それでも、その逸話のどれもが、今の僕の生活に対して深く暗い影を落としていることは間違いない。


書けないのだ。

 

そういったやっかいなものを、自分の頭の中から外に追い出すことができれば、どれだけすっきりすることだろう。冷静に言語化できるまでに、自分の中で整理のついた出来事になってはくれないだろうかと思い悩む。
いつかは書ける日がくるのだろうか。それらが無事に文章の形をとり、人目に触れる状態になった時には、僕はもうこの世になにも思い残すことなく、後にすることができるような気がしている。

 

とりあえずしばらくは、自分の内面の奥深くに肉薄することは止めておいて、ここ最近読んでいた本や、観た映画のことなど、当たり障りのない記事を書いていこうと思っている。

25年前の自分にスマホを見せてみた

「さっきジョギングしてた時、ずっとそれを耳につけてたけど、いったい何なの?」

彼はそう言いながら僕の手元を覗き込んできた。
「ああ、これか。これで音楽を聴いてたんだよ。」
「この耳栓みたいなやつで?へぇ、こんなので音楽聴けるんだ。これのどこに音楽が入ってるの?」
「このスマホから電波を飛ばして、こっちの耳栓から音楽がなるようになってるんだ。」
スマホって、この薄っぺらい板みたいなの?なるほどここに音楽が入ってるってことか。僕がいつも使ってるウォークマンに近いな。でもカセットとかCDとか入れるところがないけど、どうやって音楽が入ってるの?」
「うーん。それは説明が難しいな。実はこのスマホに音楽が入ってるわけではなくて、音楽自体はデータの形で、ここではないどこか別の場所のコンピュータに置いてあるんだ。そこから音楽データが電波に乗ってこのスマホに飛んでくる。スマホはその受信したデータを再生して、この耳栓にまた電波で飛ばすんだ。」
「へぇ、未来の世界って何でも無線になってるんだね。それにしてもカセットとか持ち歩かなくていいのはすごく便利だわ。」
「いまの僕の部屋にはCDもカセットも1枚も置いてないよ。それでもアルバム1000枚分くらいの音楽が、どこかのコンピュータに置いてあって、いつでも好きな時にそこから取り出して聴けるようになっているんだ。」
僕がそう言うと、彼は目を白黒させて驚いた。

 

 

「なんだかすごい世界になってるのはわかったよ。ところでこのスマホっていう機械は音楽を聴く以外にも色んな事ができそうだね。他にどんなことができるの?」
「そうだな、写真や映像を撮ったりするカメラにもなるよ、これ。」
「すごいなそれ、もう『写ルンです 』 とかいらなくなったんだね。でもこれってどうやって現像するんだろう。」
「現像するっていう行為自体がもうあまり一般的ではなくなってるんだよ。撮った写真はそのままスマホで見たり、世界中の人が見れるように公開したりできるんだ。」
「ちょっとまって、なんでそんなことするの?写真とか、そんなプライベートなものを、なんで赤の他人が見たりできるんだ。わけがわからない。」
僕は苦笑いしながら説明をするはめになる。
「自分が撮った写真を、そういう使い方をする世の中になってるんだ。もちろんそうすることで色んな問題も起こってるよ。友達同士でふざけて撮ったプライベートな写真が、不特定多数の人達の間で出回ってしまって、永遠に回収できなくなってしまったケースなんてたくさんある。結局は、それを使う人間のモラルに全てが委ねられるというわけさ。」
そう伝えると、彼はなんだか困ったような表情をして考え込んでしまった。

 

 

「まあ、今の君にはちょっと難しいかもしれないね。今言ったような音楽や写真以外にも、もっと便利な使い方もできるんだよ。例えば、わからないことや疑問に思うことがあったら、それをスマホに伝えると、いい感じでいろいろと教えてくれるんだよ。試しに『関東 ラーメン屋 おすすめ 』って入れてみるとしよう。ほら、出てきた。 」
「うわ、このあたりのラーメン屋の情報が一杯でてきたわ。地図まで表示されてる。これっていったい誰が教えてくれてるの?神様みたいなものなのかな?」
「はは、違う違う。うーん。これも説明が難しいな。昔は集合知とか言ったりしたんだけど。とにかく世界中の色んな人達が、そこには専門家も素人も混ざってるんだけど、それぞれが思い思いに自分の経験や知識を披露している場所があって、そこから自分の欲しい情報を取ってくることができるようになっているんだよ。もちろん、ウソや紛らわしいものも含まれていて何が本当なのかよくわからなくなってくることもある。でもそこから自分にとって必要な情報を取捨選択していく力が、今の世界では重要だと言われているね。」
「ふーん。やっぱり僕には少し難しいよ。でも、これを使っていると、まるで神様と対話しているような気になってくるよ。全知全能というか、ホントにそんな感じ。」

 

 

そして僕は、彼が一番驚きそうな事実を伝えてみることにした。
「もともとこのスマホっていうのは、君の時代でいう『電話 』 がベースになっているんだ。他人と音声通話するためのデバイスとして生まれたものに、次々と機能追加していって、今のこんな形になったんだよ。」
「え?本当なの?それって。それだったら、もっとボタンとか一杯ついていて、ゴテゴテしてしまいそうな感じがするけどな。こんなシンプルな、手のひらに収まるようなサイズにまで凝縮して、誰もが手にすることができるように普及させているって、すごいことだよね。」
「あぁ、確かにそう言われてみれば、すごいことだよな。」
「僕も早く君の時代にたどり着きたいよ。今から楽しみになってきたな。」

 

 

こういったデバイスだけを見ていると、いい世の中になったよなとは思う。
まだ何も知らない純粋な自分を見ながら、僕はそう思った。