坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

ブログに書けない話

ブログを三ヶ月も更新していない。

 

このブログでは、僕がかつて経験したことや、その時に考えていたことなどを、当時の風味をできるだけ損なわないようにして、ありのままを再現して読者に伝えていくということを意識しながら書いてきた。
でも、そうやって自分の内面を切り取っては貼り付けてという作業を繰り返すうちに、自分の中の最もダークな部分に行き当たってしまうことがあって、その部分を文章化しようと奮闘している内に、ポキリと気持ちが折れてしまうことがある。

 

くやしいのだが、どうしても書けない話というのはあるものだ。

 

今年の春くらいから、そういう類の話を書き始めては挫折してというのを、何度か繰り返している。
とは言っても、それらは別にたいした話ではない。大学を出て新卒で就職した会社を一ヶ月で辞めてしまった話だったり、結婚の約束までしていた恋人と別れることになってしまった話だったり、どこにでも転がっているような、よくある挫折話なのだが。
それでも、その逸話のどれもが、今の僕の生活に対して深く暗い影を落としていることは間違いない。


書けないのだ。

 

そういったやっかいなものを、自分の頭の中から外に追い出すことができれば、どれだけすっきりすることだろう。冷静に言語化できるまでに、自分の中で整理のついた出来事になってはくれないだろうかと思い悩む。
いつかは書ける日がくるのだろうか。それらが無事に文章の形をとり、人目に触れる状態になった時には、僕はもうこの世になにも思い残すことなく、後にすることができるような気がしている。

 

とりあえずしばらくは、自分の内面の奥深くに肉薄することは止めておいて、ここ最近読んでいた本や、観た映画のことなど、当たり障りのない記事を書いていこうと思っている。

25年前の自分にスマホを見せてみた

「さっきジョギングしてた時、ずっとそれを耳につけてたけど、いったい何なの?」

彼はそう言いながら僕の手元を覗き込んできた。
「ああ、これか。これで音楽を聴いてたんだよ。」
「この耳栓みたいなやつで?へぇ、こんなので音楽聴けるんだ。これのどこに音楽が入ってるの?」
「このスマホから電波を飛ばして、こっちの耳栓から音楽がなるようになってるんだ。」
スマホって、この薄っぺらい板みたいなの?なるほどここに音楽が入ってるってことか。僕がいつも使ってるウォークマンに近いな。でもカセットとかCDとか入れるところがないけど、どうやって音楽が入ってるの?」
「うーん。それは説明が難しいな。実はこのスマホに音楽が入ってるわけではなくて、音楽自体はデータの形で、ここではないどこか別の場所のコンピュータに置いてあるんだ。そこから音楽データが電波に乗ってこのスマホに飛んでくる。スマホはその受信したデータを再生して、この耳栓にまた電波で飛ばすんだ。」
「へぇ、未来の世界って何でも無線になってるんだね。それにしてもカセットとか持ち歩かなくていいのはすごく便利だわ。」
「いまの僕の部屋にはCDもカセットも1枚も置いてないよ。それでもアルバム1000枚分くらいの音楽が、どこかのコンピュータに置いてあって、いつでも好きな時にそこから取り出して聴けるようになっているんだ。」
僕がそう言うと、彼は目を白黒させて驚いた。

 

 

「なんだかすごい世界になってるのはわかったよ。ところでこのスマホっていう機械は音楽を聴く以外にも色んな事ができそうだね。他にどんなことができるの?」
「そうだな、写真や映像を撮ったりするカメラにもなるよ、これ。」
「すごいなそれ、もう『写ルンです 』 とかいらなくなったんだね。でもこれってどうやって現像するんだろう。」
「現像するっていう行為自体がもうあまり一般的ではなくなってるんだよ。撮った写真はそのままスマホで見たり、世界中の人が見れるように公開したりできるんだ。」
「ちょっとまって、なんでそんなことするの?写真とか、そんなプライベートなものを、なんで赤の他人が見たりできるんだ。わけがわからない。」
僕は苦笑いしながら説明をするはめになる。
「自分が撮った写真を、そういう使い方をする世の中になってるんだ。もちろんそうすることで色んな問題も起こってるよ。友達同士でふざけて撮ったプライベートな写真が、不特定多数の人達の間で出回ってしまって、永遠に回収できなくなってしまったケースなんてたくさんある。結局は、それを使う人間のモラルに全てが委ねられるというわけさ。」
そう伝えると、彼はなんだか困ったような表情をして考え込んでしまった。

 

 

「まあ、今の君にはちょっと難しいかもしれないね。今言ったような音楽や写真以外にも、もっと便利な使い方もできるんだよ。例えば、わからないことや疑問に思うことがあったら、それをスマホに伝えると、いい感じでいろいろと教えてくれるんだよ。試しに『関東 ラーメン屋 おすすめ 』って入れてみるとしよう。ほら、出てきた。 」
「うわ、このあたりのラーメン屋の情報が一杯でてきたわ。地図まで表示されてる。これっていったい誰が教えてくれてるの?神様みたいなものなのかな?」
「はは、違う違う。うーん。これも説明が難しいな。昔は集合知とか言ったりしたんだけど。とにかく世界中の色んな人達が、そこには専門家も素人も混ざってるんだけど、それぞれが思い思いに自分の経験や知識を披露している場所があって、そこから自分の欲しい情報を取ってくることができるようになっているんだよ。もちろん、ウソや紛らわしいものも含まれていて何が本当なのかよくわからなくなってくることもある。でもそこから自分にとって必要な情報を取捨選択していく力が、今の世界では重要だと言われているね。」
「ふーん。やっぱり僕には少し難しいよ。でも、これを使っていると、まるで神様と対話しているような気になってくるよ。全知全能というか、ホントにそんな感じ。」

 

 

そして僕は、彼が一番驚きそうな事実を伝えてみることにした。
「もともとこのスマホっていうのは、君の時代でいう『電話 』 がベースになっているんだ。他人と音声通話するためのデバイスとして生まれたものに、次々と機能追加していって、今のこんな形になったんだよ。」
「え?本当なの?それって。それだったら、もっとボタンとか一杯ついていて、ゴテゴテしてしまいそうな感じがするけどな。こんなシンプルな、手のひらに収まるようなサイズにまで凝縮して、誰もが手にすることができるように普及させているって、すごいことだよね。」
「あぁ、確かにそう言われてみれば、すごいことだよな。」
「僕も早く君の時代にたどり着きたいよ。今から楽しみになってきたな。」

 

 

こういったデバイスだけを見ていると、いい世の中になったよなとは思う。
まだ何も知らない純粋な自分を見ながら、僕はそう思った。

お金を稼ぐということ

僕は20代の前半から30代の半ばまでずっと、とあるIT系のベンダーに勤務していた。

およそ15年ほど、クライアントの会社にSEとして常駐し、お客さんからの依頼に応える形で社内システムのメンテナンスをやっていた。
そこでの僕は、毎日毎日、空から降ってくる仕事をひたすらこなせば、やった分だけ給与という形でお金が貰えた。いつしかそれが当たり前のことになってしまっていて、毎月の給与を手にすることになんの感慨も得られなくなってしまっていた。
収入面ではとても安定していたし、何の不満もなかったのだが、その代わりになにか致命的な物足りなさを感じていた。
このまま自分は、クライアント企業の社内システムを維持していく立場のままで、一生を終えることになるのだろうか。
つまりは、よその会社が存続していくためのお手伝いをしていくだけの人生なのかと思うと、とてつもない虚無感が胸に押し寄せてくるのだ。
もっとこう、自分の力で商売を回すという経験がしてみたかった。ものすごく単純な言い方をすれば、自分の力でお金を稼いでみたかったのだ。
そう思った僕は、いつまでもベンダー側にいるのではなく、クライアント企業のような事業会社へ転職するべきだと考えるようになり、そういう会社を求めて転職することを決意する。

 

 

その時の僕はすでに30代の後半になっていたにも関わらず、運良く潜り込むことのできた会社があった。
全国の百貨店に店舗を展開している、名前を出せばたいていの人が知っている知名度のある会社だった。それですっかり安心して転職したつもりだったのだが、入ってみて驚愕した。
電話会社から毎月のように、口座の残高不足で電話料金の引き落としができなかったと苦情が入ってきたり、税務署から滞納している税金の督促の電話がしょっちゅうかかってきたりと、その実態は、毎月の資金繰りにあえいでいる中小企業そのものだった。
ベンダー勤務時代には、電話代や税金を会社が支払っているという意識など全くなかったのだが、その会社に転職してからというもの、そういうお金にまつわることの一つ一つがリアルに肌で感じられるようになった。
全国の店舗から上がってくる売上や、従業員に支払う給与など、色んな種類のお金が実際に会社の中を循環しており、もしもその流れが止まってしまうことがあるとしたら、その瞬間に会社は死を迎えてしまうということに気がつく。

 

 

ある時、僕が会社でデスクに向かって仕事をしていると、社長がどこからともなく近づいてきて僕にこうささやいた。
「さかもと君、今月の給与のことやねんけど、ちょっと待ってもらうことってできへんか?」
ちょうど月末で、運営している全ての店舗の営業成績を締める作業をしている時だった。
「今日は月末やろ?今日中にあと2件ほど成約が入ってくれたら、さかもと君の給料なんとかできるねんけどな…」
その時、僕はわかってしまった。お金を稼ぐということは、そういうことなのだ。
今自分のやっている仕事の成果が、ダイレクトに自分の給与に影響してくる。
もし成果が出せなければ、本当になにも手に入れることができない。
泣き言を言っても、 たとえ野垂れ死んでしまうことになったとしても、誰も助けの手を差し伸べてくれることなどないのだ。

 

 

幸い、その日の営業が終わる頃になって、滑り込みで2件の成約が出たと店舗から連絡があった。
「よかった。これでさかもと君の今月の給与出せるわ。ちょっと飲みに行こか。」
その後、安い居酒屋に連れて行かれ、そこで社長と飲みながら話をしている時に、こういうことは日常的に起こっている、つまりは給与の遅配がめずらしいことではないということを知らされた。
「もちろん私なんか、いつまで待たされても問題ないよ。」
そうつぶやく社長を見ていて、もしかするとこの人は無給で働いている時期もあるのではないかという疑いを持ってしまった。
それまで時折、この社長が周囲の社員に対して常軌を逸したキレ方をしている姿を目撃することがあったのだが、そういう行動もうなずけるような気がした。会社の収益と自分の懐が、正に直結しているからこそ、そこまで本気で必死にアツくなれるのだ。
お金を稼ぐとは、人間性まで変えてしまうという意味で、とても恐ろしいことなのかもしれない。

 

 

その会社には2年ほど勤めた後、色々あって結局辞めることになった。
辞めた一番の理由は、そういうお金儲けにまつわる諸々の重圧に耐えられなくなってしまったからだった。
今の僕は、昔のITベンダーに戻り、ぬるい日常を送っているのだが、時折あの頃感じていたヒリヒリと焼け付くような感じを思い出して懐かしくなることがある。
お金を稼ぐとはどういうことなのか。それをいつまでも忘れてはいけないと思って、今の僕は副業に手を出したりしているような気がする。

僕が考えた最強のネット通販

前回の記事ではブログ収益について少し話したが、僕はそれ以外にもサラリーマンの副業として興味を持っていることがひとつある。

それは、商売としてはとてもオーソドックスなのだが、「ネット通販」だ。
ネット通販と言えば、どこかから商品を仕入れてきて、それに利益分を上乗せしてまたどこかで売るという、ただそれだけのことなのだが、そのやり方は色々あって、世の中には実に様々な形態のネット通販が存在する。
ブックオフリアル店舗仕入れたものをヤフオクで売ったり、海外のアマゾンで買ったものを日本のアマゾンで売ったりと、せどりやネット輸出入などと一般に呼ばれる手法があって、書店のビジネス書コーナーに行くと、その手の攻略指南本がたくさん並んでいたりする。

 

 

ただ、やることは本当にシンプルな物販なので、そこには仕入先や顧客との間で商品やお金のやりとりが頻繁に発生する。そのため、非常に手間がかかるといったイメージがついてまわる。
また、売れない不良在庫を大量に抱えこんでしまってにっちもさっちもいかなくなる可能性もある。これについては、「何を売るのか?」という選択に全てがかかってくる為に、とても難しい問題だと言えるだろう。
ネット通販はいつかやってみたいと思っているのだが、始めるにあたってこれらの点がとても不安に感じられてしまって、なかなか最初の一歩を踏み出せずにいる。
逆に言えば、これらの問題さえクリアされるならば、始めようという気持ちになれるかもしれない。

 

 

商品やお金のやりとりが面倒だという点については、商品の出品先にアマゾンを利用するとして、FBAという仕組みを使うといくらか楽にできそうな気がしている。アマゾンのサイトに出品する際に、あらかじめアマゾンの倉庫に売りたい商品を発送しておくと、サイトでその商品が売れた際に、顧客への配送と集金をアマゾンが代行してくれるというものだ。
実は、アマゾンFBAに商品を発送・登録する作業すらも、それを代行してくれる業者というものが世の中にはあって、仕入先からその業者に直接商品を転送するようにすると、一度も商品の現物に触れることなく商売を回すこともできそうだ。物販なのに現物商品を扱わないとなると不思議な気持ちになってくるが、個人でもこういう外注サービスを駆使することで、それが可能になるのだ。
ただし、こういうサービスを利用するには、それなりに手数料がかかるし、本当にそんなにうまくいくものなのかどうか、実際にやってみないとよくわからないところはある。

 

 

そして最大の問題なのだが、「何を売るのか?」ということについてだ。
これに関してはちょっと考えていることがあって、それは、アマゾンなどの通販サイトに掲載されているデータを日々監視して、そこから売れ筋商品を自動的に判定するシステムが作れないかということだ。例えば、アマゾンで売られている商品データをスキャンして、前日の在庫数との差分を取れば、どれが今たくさん売れている商品なのかを把握することは理論的に可能だ。あとは、その時その時の売れ筋商品のみに的を絞って仕入れと出品を繰り返せばいいだけの話で、今一番売れているものを売っているのだから、不良在庫を抱えるリスクも相当減らすことができるだろう。
これなんか、発注のところをうまくシステム化すれば、ほとんど頭を使わずに半自動でサクサク商売を回していくことができそうな気がしている。システムからの「今これを売買しなさい」という指示に従って取引していけばいいので、これは株の自動売買システムに近いものがあるかもしれない。

 

 

というのが、僕が考えているネット通販で稼ぐ仕組みだ。
物販というとものすごく手間がかかるようなイメージがあるが、僕がイメージしているような仕組みを実際に構築することができれば、人の手が入る余地のほとんどない、非常にスマートなネット通販ビジネスができそうだ。
ブログ収益と同じように、最初だけ一生懸命頑張っておけば、後は長期に渡って自動でどんどんお金を稼いできてくれるような仕組みが作れそうな気がしてきて、ちょっとワクワクしてしまう。

ブログ飯で生きていく

はてブホッテントリを眺めていて度々目にするのが、「今月は当ブログでこれだけ稼ぎました!」というような感じの収益報告のブログエントリだ。

そういうのを見かけるたびに、うらやましいなと思うと同時に、これってほんとなのかな?という疑問がいつもわいてくる。
ある時、そういうのが本当のところはどうなのか自分で確かめてみたいという思いを抑えきれなくなって、ブログから収益を得るということにチャレンジしてみたことがある。

 

 

その時に僕がやり始めたブログは、ある特定のカテゴリに属するおすすめの製品をひたすら紹介していくというもので、そこにアフィリエイトのリンクをぺたりぺたりと貼り付けながら、毎日のように記事を更新していったのだった。半年ほどそれを続けると、検索経由で人がたくさん見に来るようになってきて、だいたい月間7~8万PV程度のブログに育てあげることに成功した。
そして、肝心の収益なのだが、これが月に2~3万円程度はコンスタントに入ってくるようになったのだ。
およそ半年間、一日あたり小一時間程度の時間を使ってブログ更新を毎日続けて、200記事程度作成した後は、全く手を入れずに完全放置状態にしてある。
ブログ更新をストップしてから一年近く経過しているが、いまだに毎月2~3万円は確実に口座に入ってくるのだ。
これがいつまで続くのかはわからないが、今のところ、PVも収益も落ちる気配を感じない。もしかすると、このままの状態でずっと維持し続けてくれるのかもしれないが、もしそうなれば、不動産収入のような感じで、該当のブログは資産として非常においしいものに化けてくれたことになる。

 

 

今後、そのブログとはまた別のカテゴリで新たなブログを作成して、半年くらいかけて育てあげていけば、また同程度の収益を生み出すブログになってくれるかもしれない。そして、何年もかけてそういうお金になるブログを少しずつ増やしていけば、最終的にアフィリエイトだけで生きていくことも可能なのではないかという気がしてくる。
こういう風に、世の中の仕組みをうまくハックして、そこからお金を引き出していくのって、とても怪しい感じがするが、会社勤めする以外にも、お金を手に入れる手段を手の内に持っておくことは大切なことだと思う。

 

 

サラリーマンにとって、2万円という金額はでかい。
僕と同い年の妻子持ちの友人で、毎日の昼飯代に200円しか使うことができないとぼやいている奴がいるのだが、一般的な日本のサラリーマンはそんなものだろう。そこに毎月2万円の定期収入がプラスされるとしたら…毎日プチ豪勢な昼飯を食べることができそうだ。
というわけで、サラリーマンの副業として、ブログ収益というものは非常においしいなと感じる。
また、もし何らかの理由で突然職を失ったとしても、最悪、ぼくがやったような方法でどんどんお金を稼ぎ出すことができれば、それだけでも割りとなんとか生きていくことができるのではないだろうか。そういう保険のような意味合いでも、ブログ収益はおいしいと言えるだろう。

 

 

僕がやったことには、なんの文才も必要ないし、特殊な技能や知識が必要なわけでもない。
ただ、半年間毎日ブログを機械的に更新し続ける根気さえあれば、誰にでもできる再現性のある手法だ。
さて、そろそろここらへんでアフィリエイトのノウハウ教材の購入リンクが貼られそうな気配になってきたが、そういうことをやりだすと魂が濁っていきそうな気がするので、今日はこのあたりでやめておこう。

「The Last of Us」感想

本当に恐ろしいゲームだった。

 

 

ゾンビもののゲームであるということは以前から知っていたのだが、なぜそれほどまで世間からの評価が高いのか、ずっと不思議に思っていた。
ストーリーも見聞きした範囲では平凡なものにしか感じられない。ゾンビウィルスが蔓延して文明が崩壊した世界を舞台に、ゾンビウィルスに対する抗体を持った少女を、とある研究機関まで無事に送り届けるというミッションを請け負った主人公の冒険を描いたものだ。
昔からよくあるやつで、なにも新鮮味は感じない。
訝しげに感じながら、年末に買ったプレステ4のコントローラーを僕は操作し始めた。

 

 

プレイし始めて、すぐに違和感を感じた。
このゲーム、あまりゾンビが出てこないのだ。
じゃあ何をしているかというと、ひたすら人間を相手に戦っているのである。
世界は「北斗の拳」のような荒廃した状態になっており、そんな中で略奪を繰り返すヒャッハーな人々がいて、ゲーム序盤では彼らを相手に戦っている場面が多いのだ。
けれども、これもそんなに目新しい要素でもない。
「怖いのはゾンビではなく、実は人間なのだ」というように、怖さのポイントを微妙にずらしてくるのは、ホラー映画やドラマなどでおなじみの手法だ。だから僕は、まだこの時点でも、そんなにこのゲームに対して怖いだとか面白いだとか、とりたてて目立った印象は持っていなかった。

 

 

それが、ストーリーの中盤あたりから、だんだんと様子が変わってくる。
さきほどのヒャッハー軍団のリーダーのような人物が出てきて、主人公である僕のことを「仲間を大勢殺しまくったイカレ野郎」とつぶやくシーンが出て来る。
このシーンで少し驚いた。ああそういうことなのかと思った。
なるほど、敵である彼らから見れば、主人公は大量殺戮を繰り返す恐ろしい人物に映っているのだろう。
このあたりから、間違ったことをしているのはひょっとしたら自分の方なのではないか?という疑問が僕の心の中に芽生え始める。
それまでは主人公のことを、人類の未来の為にたった一人で少女を守りつつ孤独に戦うヒーローだと思いこんでいたのだが、そこに別の視点が混じり始めるのだ。
そして、この気持が物語の終盤へ向けて、一気に加速していくことになる。

 

 

無事に少女を研究機関に送り届けることができたものの、少女を研究してワクチンを開発するためには、少女の命を奪わなければならないことを知らされる主人公。
この時点で主人公は少女に対して、自分の娘に対するような強い親愛を抱いており、見殺しにするなんてあり得ないという気持ちを抱いてしまう。
そして、主人公が最後に選択した行動は、研究機関の人間を皆殺しにして少女を救うということだった。
このパートのラストで、無抵抗の医者に対して銃の引き金を引くシーンが出てくるのだが、実際にゲーム機のコントローラーを操作していて、本当にきつかった。
人類の未来よりも、結局は自分のエゴを優先させてしまうという、人間の悲しさ。その背景にある恐ろしさが、コントローラーを握った指先を通して直接伝わってくるかのようだった。
怖いのは、ゾンビでもなく、周囲の人間でもなく、自分自身だったのだ。それを、最後の最後で思い知らされることになる。

 

 

冒頭にも書いたようにこのゲーム、評価が非常に高くて、世界中で色々な賞を総なめにしているらしいのだが、それも頷ける内容だった。

海外ゲームは大体が「俺強ぇー」でガンガン進んでいくタイプのものが多いのだが、これはじわじわと真綿で首を絞めにかかってくるような怖さがあってとてもよかった。
続編が製作中とのことなので、次もどんなひねりの聞いた展開を味わうことができるのかと、とても期待している。

 

 

The Last of Us Remastered 【CEROレーティング「Z」】 - PS4

The Last of Us Remastered 【CEROレーティング「Z」】 - PS4

 

 

ネットで自殺予告する人々

この間ツイッターをぼんやり眺めていたら、「今から首吊ります。みなさんさようなら。」という書き込みを見つけた。

気になったので、該当ツイートをクリックすると、たくさんのリプライがついていた。
「それはだめだ。やめろ。」
「とりあえずその首にかけてる紐を外そうよ。」
「また君とお話ししたいのに、お願いだからやめてよ。」
どうも本気の自殺予告のようだった。
その後しばらくの間、その人のツイートをちょくちょく観察していたのだが、翌日になって「やっぱり死にきれませんでした。みなさんお騒がせしました。ごめんなさい。」という書き込みがアップされた。
そしてその直後、まだ舌の根も乾かぬうちに「おいしいケーキが食べたい!」みたいな日常ツイートに戻っていて、なんだかやるせない気持ちになってしまった。
「死」という重苦しい言葉を口にした時の、あの悲壮感は一体どこにいったんだよ、と思う。怒るでしかし。

 


SNSが一般的なものになってからというもの、このようにカジュアルな感じで自殺予告する人が増えたように感じる。
こういうものを見つけると、いつだってちょっとドキドキしてしまう。
親しい知人だった場合は、全力でストップをかけにいくだろうが、全く面識のない赤の他人の場合だったりすると、「お、おう」みたいな感じになって、その後、興味本位でどうなるのかとチラチラ観察することになる。
ほとんどの場合、今回のような感じで、「やっぱり無理でした。お騒がせしてごめんなさい」的な謝罪文の後で、もとの日常ツイートに戻っていく。
いつから「死」は、こんなに軽いものになってしまったのだろうか。

 


ネットで自殺予告するような人って、やっぱりどこかで誰かに止めて欲しいみたいなところがあるのだろうか。
あの自殺予告ツイートについていた数多くのリプライが、なにか自殺を引き止める力になってくれたりするものなのだろうか。
自殺予告の書き込みを見て心配した知人が警察に通報して、それを受けて警察官が自宅まで来たりすることもあるらしいので、そういうところまで見越した上で、あえてネットでそういう書き込みをしているのかもしれない。本当に死んでしまわないように、あらかじめ予防線を張っている可能性もある。
僕が思うに、本当に死のうと思っている人っていうのは、もっと孤独の中にひっそりと埋もれてしまっているような気がするのだ。
「死」は、そんな饒舌なものではなく、普段のなにげない日常の中にひそかに紛れ込んでいて、ある時当然ひょっこりと顔を出してくるような、そんなイメージなのだ。

 


とはいうものの、ごくごくまれに、ネットで自殺予告をして、そのまま本当に死んでしまう人がいるのも事実だ。
そういうものを目にすると、さすがにへこんでしまう。興味本位で覗き見していたはずが、一転していやーな気持ちになってしまう。
「やっぱり死ねませんでした。」という書き込みを見て、腹ただしい気持ちになるのとはとても対照的だ。赤の他人とはいえ、人が死んでいい気持ちになれるわけがないのだ。
そして、故人が残した数多くのツイートやブログ記事をざっと流し読みしながら、もうこの人はこの世にはいないのだという事実が胸の中に澱のような重苦しい感情を残していく。
だが、そんな感情も、そんなに長くは続かない。ブラウザを閉じて、パソコンの電源を落とす頃には、もうそんな人のことなど、ほとんど忘れかけてしまっている。
そんなものなのかもしれない。
悲しいが、僕が生きている今の時代では、「死」さえも手軽に消費されてしまう情報のひとつに過ぎないのだ。

 

 

関連記事

sakamoto2.hateblo.jp