坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

ブログ飯で生きていく

はてブホッテントリを眺めていて度々目にするのが、「今月は当ブログでこれだけ稼ぎました!」というような感じの収益報告のブログエントリだ。

そういうのを見かけるたびに、うらやましいなと思うと同時に、これってほんとなのかな?という疑問がいつもわいてくる。
ある時、そういうのが本当のところはどうなのか自分で確かめてみたいという思いを抑えきれなくなって、ブログから収益を得るということにチャレンジしてみたことがある。

 

 

その時に僕がやり始めたブログは、ある特定のカテゴリに属するおすすめの製品をひたすら紹介していくというもので、そこにアフィリエイトのリンクをぺたりぺたりと貼り付けながら、毎日のように記事を更新していったのだった。半年ほどそれを続けると、検索経由で人がたくさん見に来るようになってきて、だいたい月間7~8万PV程度のブログに育てあげることに成功した。
そして、肝心の収益なのだが、これが月に2~3万円程度はコンスタントに入ってくるようになったのだ。
およそ半年間、一日あたり小一時間程度の時間を使ってブログ更新を毎日続けて、200記事程度作成した後は、全く手を入れずに完全放置状態にしてある。
ブログ更新をストップしてから一年近く経過しているが、いまだに毎月2~3万円は確実に口座に入ってくるのだ。
これがいつまで続くのかはわからないが、今のところ、PVも収益も落ちる気配を感じない。もしかすると、このままの状態でずっと維持し続けてくれるのかもしれないが、もしそうなれば、不動産収入のような感じで、該当のブログは資産として非常においしいものに化けてくれたことになる。

 

 

今後、そのブログとはまた別のカテゴリで新たなブログを作成して、半年くらいかけて育てあげていけば、また同程度の収益を生み出すブログになってくれるかもしれない。そして、何年もかけてそういうお金になるブログを少しずつ増やしていけば、最終的にアフィリエイトだけで生きていくことも可能なのではないかという気がしてくる。
こういう風に、世の中の仕組みをうまくハックして、そこからお金を引き出していくのって、とても怪しい感じがするが、会社勤めする以外にも、お金を手に入れる手段を手の内に持っておくことは大切なことだと思う。

 

 

サラリーマンにとって、2万円という金額はでかい。
僕と同い年の妻子持ちの友人で、毎日の昼飯代に200円しか使うことができないとぼやいている奴がいるのだが、一般的な日本のサラリーマンはそんなものだろう。そこに毎月2万円の定期収入がプラスされるとしたら…毎日プチ豪勢な昼飯を食べることができそうだ。
というわけで、サラリーマンの副業として、ブログ収益というものは非常においしいなと感じる。
また、もし何らかの理由で突然職を失ったとしても、最悪、ぼくがやったような方法でどんどんお金を稼ぎ出すことができれば、それだけでも割りとなんとか生きていくことができるのではないだろうか。そういう保険のような意味合いでも、ブログ収益はおいしいと言えるだろう。

 

 

僕がやったことには、なんの文才も必要ないし、特殊な技能や知識が必要なわけでもない。
ただ、半年間毎日ブログを機械的に更新し続ける根気さえあれば、誰にでもできる再現性のある手法だ。
さて、そろそろここらへんでアフィリエイトのノウハウ教材の購入リンクが貼られそうな気配になってきたが、そういうことをやりだすと魂が濁っていきそうな気がするので、今日はこのあたりでやめておこう。

「The Last of Us」感想

本当に恐ろしいゲームだった。

 

 

ゾンビもののゲームであるということは以前から知っていたのだが、なぜそれほどまで世間からの評価が高いのか、ずっと不思議に思っていた。
ストーリーも見聞きした範囲では平凡なものにしか感じられない。ゾンビウィルスが蔓延して文明が崩壊した世界を舞台に、ゾンビウィルスに対する抗体を持った少女を、とある研究機関まで無事に送り届けるというミッションを請け負った主人公の冒険を描いたものだ。
昔からよくあるやつで、なにも新鮮味は感じない。
訝しげに感じながら、年末に買ったプレステ4のコントローラーを僕は操作し始めた。

 

 

プレイし始めて、すぐに違和感を感じた。
このゲーム、あまりゾンビが出てこないのだ。
じゃあ何をしているかというと、ひたすら人間を相手に戦っているのである。
世界は「北斗の拳」のような荒廃した状態になっており、そんな中で略奪を繰り返すヒャッハーな人々がいて、ゲーム序盤では彼らを相手に戦っている場面が多いのだ。
けれども、これもそんなに目新しい要素でもない。
「怖いのはゾンビではなく、実は人間なのだ」というように、怖さのポイントを微妙にずらしてくるのは、ホラー映画やドラマなどでおなじみの手法だ。だから僕は、まだこの時点でも、そんなにこのゲームに対して怖いだとか面白いだとか、とりたてて目立った印象は持っていなかった。

 

 

それが、ストーリーの中盤あたりから、だんだんと様子が変わってくる。
さきほどのヒャッハー軍団のリーダーのような人物が出てきて、主人公である僕のことを「仲間を大勢殺しまくったイカレ野郎」とつぶやくシーンが出て来る。
このシーンで少し驚いた。ああそういうことなのかと思った。
なるほど、敵である彼らから見れば、主人公は大量殺戮を繰り返す恐ろしい人物に映っているのだろう。
このあたりから、間違ったことをしているのはひょっとしたら自分の方なのではないか?という疑問が僕の心の中に芽生え始める。
それまでは主人公のことを、人類の未来の為にたった一人で少女を守りつつ孤独に戦うヒーローだと思いこんでいたのだが、そこに別の視点が混じり始めるのだ。
そして、この気持が物語の終盤へ向けて、一気に加速していくことになる。

 

 

無事に少女を研究機関に送り届けることができたものの、少女を研究してワクチンを開発するためには、少女の命を奪わなければならないことを知らされる主人公。
この時点で主人公は少女に対して、自分の娘に対するような強い親愛を抱いており、見殺しにするなんてあり得ないという気持ちを抱いてしまう。
そして、主人公が最後に選択した行動は、研究機関の人間を皆殺しにして少女を救うということだった。
このパートのラストで、無抵抗の医者に対して銃の引き金を引くシーンが出てくるのだが、実際にゲーム機のコントローラーを操作していて、本当にきつかった。
人類の未来よりも、結局は自分のエゴを優先させてしまうという、人間の悲しさ。その背景にある恐ろしさが、コントローラーを握った指先を通して直接伝わってくるかのようだった。
怖いのは、ゾンビでもなく、周囲の人間でもなく、自分自身だったのだ。それを、最後の最後で思い知らされることになる。

 

 

冒頭にも書いたようにこのゲーム、評価が非常に高くて、世界中で色々な賞を総なめにしているらしいのだが、それも頷ける内容だった。

海外ゲームは大体が「俺強ぇー」でガンガン進んでいくタイプのものが多いのだが、これはじわじわと真綿で首を絞めにかかってくるような怖さがあってとてもよかった。
続編が製作中とのことなので、次もどんなひねりの聞いた展開を味わうことができるのかと、とても期待している。

 

 

The Last of Us Remastered 【CEROレーティング「Z」】 - PS4

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ネットで自殺予告する人々

この間ツイッターをぼんやり眺めていたら、「今から首吊ります。みなさんさようなら。」という書き込みを見つけた。

気になったので、該当ツイートをクリックすると、たくさんのリプライがついていた。
「それはだめだ。やめろ。」
「とりあえずその首にかけてる紐を外そうよ。」
「また君とお話ししたいのに、お願いだからやめてよ。」
どうも本気の自殺予告のようだった。
その後しばらくの間、その人のツイートをちょくちょく観察していたのだが、翌日になって「やっぱり死にきれませんでした。みなさんお騒がせしました。ごめんなさい。」という書き込みがアップされた。
そしてその直後、まだ舌の根も乾かぬうちに「おいしいケーキが食べたい!」みたいな日常ツイートに戻っていて、なんだかやるせない気持ちになってしまった。
「死」という重苦しい言葉を口にした時の、あの悲壮感は一体どこにいったんだよ、と思う。怒るでしかし。

 


SNSが一般的なものになってからというもの、このようにカジュアルな感じで自殺予告する人が増えたように感じる。
こういうものを見つけると、いつだってちょっとドキドキしてしまう。
親しい知人だった場合は、全力でストップをかけにいくだろうが、全く面識のない赤の他人の場合だったりすると、「お、おう」みたいな感じになって、その後、興味本位でどうなるのかとチラチラ観察することになる。
ほとんどの場合、今回のような感じで、「やっぱり無理でした。お騒がせしてごめんなさい」的な謝罪文の後で、もとの日常ツイートに戻っていく。
いつから「死」は、こんなに軽いものになってしまったのだろうか。

 


ネットで自殺予告するような人って、やっぱりどこかで誰かに止めて欲しいみたいなところがあるのだろうか。
あの自殺予告ツイートについていた数多くのリプライが、なにか自殺を引き止める力になってくれたりするものなのだろうか。
自殺予告の書き込みを見て心配した知人が警察に通報して、それを受けて警察官が自宅まで来たりすることもあるらしいので、そういうところまで見越した上で、あえてネットでそういう書き込みをしているのかもしれない。本当に死んでしまわないように、あらかじめ予防線を張っている可能性もある。
僕が思うに、本当に死のうと思っている人っていうのは、もっと孤独の中にひっそりと埋もれてしまっているような気がするのだ。
「死」は、そんな饒舌なものではなく、普段のなにげない日常の中にひそかに紛れ込んでいて、ある時当然ひょっこりと顔を出してくるような、そんなイメージなのだ。

 


とはいうものの、ごくごくまれに、ネットで自殺予告をして、そのまま本当に死んでしまう人がいるのも事実だ。
そういうものを目にすると、さすがにへこんでしまう。興味本位で覗き見していたはずが、一転していやーな気持ちになってしまう。
「やっぱり死ねませんでした。」という書き込みを見て、腹ただしい気持ちになるのとはとても対照的だ。赤の他人とはいえ、人が死んでいい気持ちになれるわけがないのだ。
そして、故人が残した数多くのツイートやブログ記事をざっと流し読みしながら、もうこの人はこの世にはいないのだという事実が胸の中に澱のような重苦しい感情を残していく。
だが、そんな感情も、そんなに長くは続かない。ブラウザを閉じて、パソコンの電源を落とす頃には、もうそんな人のことなど、ほとんど忘れかけてしまっている。
そんなものなのかもしれない。
悲しいが、僕が生きている今の時代では、「死」さえも手軽に消費されてしまう情報のひとつに過ぎないのだ。

 

 

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僕にとってのインターネット

その昔、もう二十年ほど前に、黎明期のインターネットでホームページをやっていたことは以前に書いた。
あの頃の僕は、ネットがどういうものなのかもまだよくわかっていない時期で、それでもホームページをやるからにはできるだけ目立ちたいと考えていた。
その為、できるだけ妙な感じの、見た人みんなが首を傾げたくなるような内容のホームページを目指して、ひたすら更新していた。

死体写真を使ったコンテンツ以外にも、人生相談や星占いのコーナーを装って、ひたすら読者のメンタルが打ちのめされるようなコンテンツを日々量産していた。
こういうホームページのことを、当時はテイストレス系(Tasteless)と呼んでいて、好きな人にとってはそれなりに人気のあるジャンルだったのだ。
それでもたいていの人からは、誰が何のためにこんなわけのわからないホームページを作って公開しているのだろうと不思議に思われていただろうと思う。
でも、当時の僕にとっては、それがそれなりに意味のある行為として成立していたのだ。

 

 

あの頃の僕は、学生を卒業して社会人になったばかりの頃で、「働く」ということに対してどうしてもうまい意味付けができていなかった時期だった。
それまで学生として、勉強とかスポーツとかそれなりに頑張ってきて、結局たどりついた場所がここなの?は?ふざけんなよ、みたいな感じ。
「こんなことする為に今までタラタラ学生やってきたわけじゃないよー。」と大声で叫びたいけど、叫ぶ方向がわからなくて途方に暮れていた。そんな状態だった。
猛烈に騙されたような感覚と言えばよいのだろうか。別に具体的な誰かに騙されたわけではないんだけれども、世の中とか、大人とか、そういったものに、自分は今までうまく騙されてたんだなあっていう気持ちを痛いほど感じていた。
そして、そんな世の中に対して、何か反撃してやりたいという思いがとても強くなってきて、そのための手段を、当時の僕は痛切に欲していた。
そんなところにポンと目の前に転がってきたのがインターネットだった。
自分を騙した世界に反撃するための手段として、ネットを通じて自己表現することを僕は選んだのだ。
つまり、見た人が心底イヤーな気分になるようなメディアを作って、世界中のどこからでもアクセスできる状態にしておく。それを可能にしてくれるのが、インターネットだった。
僕にとってのインターネット。それは、世界に対する反撃から始まった。

 

 

今にして思うのは、心に深い闇を抱えていたこの時期に、インターネットが本格的に普及を始めていて本当によかったと思う。
もしタイミングがずれていて、ネットがない時代だったら、僕はなにか猟奇的な犯罪に手を染めることになっていたかもしれない。
そのくらい、ネットの先に広がっている世界に対しては、自分の中にあるドス黒いもやもやした感情をいい感じに吸収してくれる懐の広さを感じていた。
今現在の僕は、世界に対する折り合いも上手につけることができていて、きっとそれが大人になったということなんだろうけど、こうして今みたいにブログの更新ボタンを押す時などに、ほんのちょっと当時のことを思い出してしまうことがある。
自分の書いた文章がネットに流れ出す時に、「これでも食らえ!」と呟いていることがあったりして、自分でも苦笑いしてしまうのだ。

 

 

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sakamoto2.hateblo.jp

帰りに、ちょっと一杯

週に一度僕は、仕事終わりの帰宅途中でコンビニに立ち寄る。

そこで適当なカップラーメンを買って、お湯をそそいで、そのままコンビニ内に設置されているイートインで食べてしまう。
これがもう長いこと自分の中で、がっつりと習慣化されていて、よほどの理由がない限り欠かしたことはない。
子供の頃はよく、大人にはみんないきつけの飲み屋さんがあって、仕事帰りにはそこに立ち寄るのが習慣になっているものだと思いこんでいたのだが、僕の場合はなぜかそれがコンビニのイートインになってしまっているのだ。
そこで僕は、お酒のかわりにカップラーメンをすする。
帰りに、ちょっと一杯やってから帰宅するのだ。

 

 

そもそもなんでカップラーメンなのかというと、晩ごはん前に軽くおやつ的ななにかが欲しいという理由の他に、どうも子供時代の思い出が密接にからんでいるような気がする。
子供の頃から僕はカップラーメンが大好きだった。でも親からは「カップラーメンは体に悪いから食べてはいけない」と禁止されていたのだ。
それでも友達の家や親戚の家などで何度か食べる機会があって、その度にあの特有の味付けや麺の食感に惹かれ続けながら、自分の家ではなかなか自由に食べさせてもらえないというジレンマを抱え続けていた。
一度だったか、なぜか自宅で食べさせてもらえることがあったのだが、その時は、あろうことかカップから麺を取り出して、鍋で煮たものを食べさせられたのだ。親からすると、あの発泡スチロールのカップにお湯をそそぐという行為が、不衛生に感じられたのだろう。でも、そんなものはカップラーメンでもなんでもない。カップから取り出された時点で、それは別の食べ物になってしまうのだ。
全く同じものであるにも関わらず、カップで食べるのとは微妙に違う味わいのラーメンを食べながら、なんだか自分の欲望が蹂躙されたような思いを抱いていた。
そんなわけで、子供の頃にカップラーメンを自由に食べさせてもらえなかったという苦い記憶が、現在の僕のこの行動に少なからず影響しているような気がするのだ。
子供の頃に禁止されていたことって、大人になると習慣化してしまうことがよくある。コーヒーもそうだし、テレビゲームだってそうだ。あれは一体なんなのだろう。
大人になった今だからこそ、好きなだけ食べられるという幸せをかみしめたいのだろうか。

 

 

それにしても今時のカップラーメンは本当に数多くの種類が出ていて、単純に売り場を眺めているだけでも楽しい気分になってくる。
昔ながらの日清カップヌードルにも色んな新しいバリエーションが増えていたり、それ以外にも有名なラーメン屋さんが監修しているものがあったりと、そういう新しい出会いを経験するのがとても楽しいのだ。
ん?これは!と思うパッケージを見つけた時には、これにお湯を注いだらどんな化学変化が起こるのだろうというワクワク感がとまらなくなってしまう。そして実際にお湯を注いで待っている3分間が、焦らされているような気がして、またいい感じなのだ。
毎週毎週、入れ替わり立ち替わり、本当に色んな種類のカップラーメンが発売されては消えていくが、それらを一期一会で食べ比べしてみて、これはすごくおいしいというものに出会えた時の満足感は、なにものにも耐え難い。
これからも、ずっとこの習慣は続いていくのだろうと思う。体には悪いんだろうけど。

恋愛を成立させるテクノロジー

僕の両親は、お見合いで知り合って結婚した。

その昔、興味が湧いたので母に尋ねてみたことがある。父と最初に知り合った時の印象がどうだったかと。
『なんか、ぱっとしない人やったわ。』

そう感じた母は、そのままお見合いの話を進めることに積極的にはなれず、うまく断ろうと思っていたらしい。
でも、父母が知り合ったお見合いは、外部からの強制力が結構キツめに設定されていたらしくて、お互いにいつの間にか気づかない内に結婚することになっていたという。
今の時代からすると、そんなんで結婚していいのか?と首をかしげたくなるような話だが、父母の時代では別にとりたてておかしなことでもなく、普通のことだったらしい。そんなふうにして、なんとなく周囲から押されるような形で結婚してしまった夫婦が、当時は多かったのだろう。

 

 

考えてみると、僕の両親が若かった頃の時代って、男女が気軽に知り合えるような環境だとか、お互いのコミュニュケーションを支えてくれる技術については、とても陳腐なものだったのだろう。それでも結婚という難易度の高い行為を成就させるためには、ある程度外部からの強制的な圧力や、社会的な流れに乗っかってしまうことが重要だったのかもしれない。
そうなのだ、たしかに大昔は、見ず知らずの女性と顔見知りの仲になったりすることは難しかったし、そこからさらに個人的にコンタクトを取ってうまくやりとりするのはもっと難しかった。
今は、携帯やメールやラインがあったりして、そのあたりの環境はずいぶんと整備されているように思う。
僕はよく知らないけど、見聞きした範囲では、お見合いサイトやお見合いパーティーなどの、異性と知り合う環境についても、近頃はとても充実してきているように感じる。
このあたりは、父母の時代と比較しても、また僕の若い頃と比べても、格段に進化しているような気がする。

 

 

ところで今僕は、「進化」と言ったが、それは本当に「進化」だと言えるのだろうか。
というのも、僕がいつも読んでいる、とある若い男性がやっている恋活ブログを見ていると、いつも複雑な気持ちになってしまうからだ。
そのブログは、彼女いない歴=年齢の男性が、頑張って彼女を作ろうと一念発起して色々と奮闘している様子が日々アップされている。しかし、この一年間で多種多様な出会いアプリや街コンを駆使しても、結局恋人ができずに今もずっと一人のままなのだ。
その男性はブログ上で、今回はこんな女性と知り合って、ラインでのやり取りを何回かして、デートに誘い、こんな場所で食事をして…などと事細かに記述しているのだが、その様子がなんだかとてもシステマティックで、まるで日常業務を淡々とこなしているかのように見えるのだ。
なによりもそれを読んでいて気になることは、その男性自身が少しも楽しそうではないところだ。なにか、辛く苦しい苦行に耐えながらそんなことをやっているような印象を受けてしまう。
最近の若い人って、みんなこんな感じなんだろうか。
まるで、恋愛に至るまでの過程を作業ととらえて、黙々とこなしていくロボットみたいだ。

 

 

この男性を含めて、今時の若い人達は、恋をし始めている時の高揚感とか、自分の気持ちが相手に受け入れられていくときの喜びを、全く知らないまま生きてきて、そしてそういうことを経験せずにこれからも生きていくのだろうか。
もしそうだとすれば、僕の両親の時代から、世界は何も進化していないような気がする。むしろ、手数が余計にかかっている分、心理的にも肉体的にも経済的にも負担が大きくなっているような気がして、これはちょっと厳しいなと思ってしまうのだ。
だからといって昔のような、お見合いによる強制マッチングの時代に戻すことなんてもうできない。
僕が願うことは、恋愛を成立させるためのテクノロジーや環境の進化が、人間の自然な感情にもっと寄り添うような形であって欲しいという、ただその一点だけだ。

今のはてなに思うこと

はてなでブログをやっていてよく耳にするのは、 「はてなブログは他のユーザーとつながる仕組みが強い」というユーザーからの声だ。

たしかにアメブロライブドアブログなど、他のブログサービスでは、とりあえず書く場所だけ提供するから、あとは勝手にやってねーという投げっぱなし感が強い。
そこで終わりにするのではなく、そこからどうやってユーザーに楽しんで使っていってもらうかっていうことを考えた時に、やはりユーザー同士をどうやってうまくつなげていくかというところが課題になってくると思うし、はてなのサービスは全体的にそういうところまで見越した上で設計されているように思う。

 


そこであらためて、はてなブログの機能を振り返ってみたのだが、一言で言うと「ゆるいつながり」というのがキーワードになっているように思う。
なんというか、がむしゃらに何が何でもユーザー同士をつなげていこうとしているような感じはしなくて、あくまでもゆるーく、わずかに袖が触れ合うような感じで他のユーザーと交流させようとしているような気がするのだ。
スターやブクマ機能を使っていても、がっつりと誰かと何かについて語り合うみたいな雰囲気には決してならない。
僕としては、ちょっとそのあたりが物足りないなーと時々感じてしまうことがある。
「グループ機能」というものが提供されているが、これなんかは、興味属性が一致するユーザー同士を結びつけるのにとてもいい機能だと思うのに、これを使っている人ってあまりいないのではないだろうか。インターフェースがなんとなくわかりづらいし、機能としてもいまいちだ。
この「グループ機能」をさらに発展させることで、ユーザーごとの興味属性を明確にして、このユーザーとこのユーザーをくっつけると面白い化学変化が起こりそうだなっていうことをシステム側で予測してマッチングするように仕向けるとか、ひらたく言うとレコメンド機能を充実させて欲しいものだ。
自分から能動的に気の合う人を探そうとしなくても、自然と周りにわらわらとそういう人達が集まってくるような、それをシステムで実装しようとするのはきっと難しいんだろうけど、まったくできないことでもないような気がするのだ。

 


まあこんなことをここで書いていても、運営には届かないんだろうけど、今これを書いていてもうひとつ残念に思うのは、最近のはてなには、サービスを改善する仕組みがなくなってしまっているのではないかということだ。
昔はもっとユーザーの声を吸い上げる仕組みがあったような気がする。もう思い出せないほど遠い昔のことだけど、はてなポイントを使った株式投資風の何らかの仕組みが存在していた記憶がある。「変な会社の作り方」という著書の中で近藤さんが「うちはこれこれこういう風にしてユーザーからのニーズに対応しています。」と、ドヤ顔で言っていたのを確かに覚えている。
あの頃とは違って、今のはてなは上場企業になっているし、これからはBtoBでがっつり売上伸ばしていきますというスタンスに変化してしまっているのかもしれない。でも、大昔から使っているユーザーの中には、こんなことを考えている人もいるんだよっていうことを、たまには思い出して目を向けて欲しいなと思う。
なんならはてなの株でも買ってみようかな。株主の意見なら聞いてもらえるのだろうか。