坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

帰りに、ちょっと一杯

週に一度僕は、仕事終わりの帰宅途中でコンビニに立ち寄る。

そこで適当なカップラーメンを買って、お湯をそそいで、そのままコンビニ内に設置されているイートインで食べてしまう。
これがもう長いこと自分の中で、がっつりと習慣化されていて、よほどの理由がない限り欠かしたことはない。
子供の頃はよく、大人にはみんないきつけの飲み屋さんがあって、仕事帰りにはそこに立ち寄るのが習慣になっているものだと思いこんでいたのだが、僕の場合はなぜかそれがコンビニのイートインになってしまっているのだ。
そこで僕は、お酒のかわりにカップラーメンをすする。
帰りに、ちょっと一杯やってから帰宅するのだ。

 

 

そもそもなんでカップラーメンなのかというと、晩ごはん前に軽くおやつ的ななにかが欲しいという理由の他に、どうも子供時代の思い出が密接にからんでいるような気がする。
子供の頃から僕はカップラーメンが大好きだった。でも親からは「カップラーメンは体に悪いから食べてはいけない」と禁止されていたのだ。
それでも友達の家や親戚の家などで何度か食べる機会があって、その度にあの特有の味付けや麺の食感に惹かれ続けながら、自分の家ではなかなか自由に食べさせてもらえないというジレンマを抱え続けていた。
一度だったか、なぜか自宅で食べさせてもらえることがあったのだが、その時は、あろうことかカップから麺を取り出して、鍋で煮たものを食べさせられたのだ。親からすると、あの発泡スチロールのカップにお湯をそそぐという行為が、不衛生に感じられたのだろう。でも、そんなものはカップラーメンでもなんでもない。カップから取り出された時点で、それは別の食べ物になってしまうのだ。
全く同じものであるにも関わらず、カップで食べるのとは微妙に違う味わいのラーメンを食べながら、なんだか自分の欲望が蹂躙されたような思いを抱いていた。
そんなわけで、子供の頃にカップラーメンを自由に食べさせてもらえなかったという苦い記憶が、現在の僕のこの行動に少なからず影響しているような気がするのだ。
子供の頃に禁止されていたことって、大人になると習慣化してしまうことがよくある。コーヒーもそうだし、テレビゲームだってそうだ。あれは一体なんなのだろう。
大人になった今だからこそ、好きなだけ食べられるという幸せをかみしめたいのだろうか。

 

 

それにしても今時のカップラーメンは本当に数多くの種類が出ていて、単純に売り場を眺めているだけでも楽しい気分になってくる。
昔ながらの日清カップヌードルにも色んな新しいバリエーションが増えていたり、それ以外にも有名なラーメン屋さんが監修しているものがあったりと、そういう新しい出会いを経験するのがとても楽しいのだ。
ん?これは!と思うパッケージを見つけた時には、これにお湯を注いだらどんな化学変化が起こるのだろうというワクワク感がとまらなくなってしまう。そして実際にお湯を注いで待っている3分間が、焦らされているような気がして、またいい感じなのだ。
毎週毎週、入れ替わり立ち替わり、本当に色んな種類のカップラーメンが発売されては消えていくが、それらを一期一会で食べ比べしてみて、これはすごくおいしいというものに出会えた時の満足感は、なにものにも耐え難い。
これからも、ずっとこの習慣は続いていくのだろうと思う。体には悪いんだろうけど。

恋愛を成立させるテクノロジー

僕の両親は、お見合いで知り合って結婚した。

その昔、興味が湧いたので母に尋ねてみたことがある。父と最初に知り合った時の印象がどうだったかと。
『なんか、ぱっとしない人やったわ。』

そう感じた母は、そのままお見合いの話を進めることに積極的にはなれず、うまく断ろうと思っていたらしい。
でも、父母が知り合ったお見合いは、外部からの強制力が結構キツめに設定されていたらしくて、お互いにいつの間にか気づかない内に結婚することになっていたという。
今の時代からすると、そんなんで結婚していいのか?と首をかしげたくなるような話だが、父母の時代では別にとりたてておかしなことでもなく、普通のことだったらしい。そんなふうにして、なんとなく周囲から押されるような形で結婚してしまった夫婦が、当時は多かったのだろう。

 

 

考えてみると、僕の両親が若かった頃の時代って、男女が気軽に知り合えるような環境だとか、お互いのコミュニュケーションを支えてくれる技術については、とても陳腐なものだったのだろう。それでも結婚という難易度の高い行為を成就させるためには、ある程度外部からの強制的な圧力や、社会的な流れに乗っかってしまうことが重要だったのかもしれない。
そうなのだ、たしかに大昔は、見ず知らずの女性と顔見知りの仲になったりすることは難しかったし、そこからさらに個人的にコンタクトを取ってうまくやりとりするのはもっと難しかった。
今は、携帯やメールやラインがあったりして、そのあたりの環境はずいぶんと整備されているように思う。
僕はよく知らないけど、見聞きした範囲では、お見合いサイトやお見合いパーティーなどの、異性と知り合う環境についても、近頃はとても充実してきているように感じる。
このあたりは、父母の時代と比較しても、また僕の若い頃と比べても、格段に進化しているような気がする。

 

 

ところで今僕は、「進化」と言ったが、それは本当に「進化」だと言えるのだろうか。
というのも、僕がいつも読んでいる、とある若い男性がやっている恋活ブログを見ていると、いつも複雑な気持ちになってしまうからだ。
そのブログは、彼女いない歴=年齢の男性が、頑張って彼女を作ろうと一念発起して色々と奮闘している様子が日々アップされている。しかし、この一年間で多種多様な出会いアプリや街コンを駆使しても、結局恋人ができずに今もずっと一人のままなのだ。
その男性はブログ上で、今回はこんな女性と知り合って、ラインでのやり取りを何回かして、デートに誘い、こんな場所で食事をして…などと事細かに記述しているのだが、その様子がなんだかとてもシステマティックで、まるで日常業務を淡々とこなしているかのように見えるのだ。
なによりもそれを読んでいて気になることは、その男性自身が少しも楽しそうではないところだ。なにか、辛く苦しい苦行に耐えながらそんなことをやっているような印象を受けてしまう。
最近の若い人って、みんなこんな感じなんだろうか。
まるで、恋愛に至るまでの過程を作業ととらえて、黙々とこなしていくロボットみたいだ。

 

 

この男性を含めて、今時の若い人達は、恋をし始めている時の高揚感とか、自分の気持ちが相手に受け入れられていくときの喜びを、全く知らないまま生きてきて、そしてそういうことを経験せずにこれからも生きていくのだろうか。
もしそうだとすれば、僕の両親の時代から、世界は何も進化していないような気がする。むしろ、手数が余計にかかっている分、心理的にも肉体的にも経済的にも負担が大きくなっているような気がして、これはちょっと厳しいなと思ってしまうのだ。
だからといって昔のような、お見合いによる強制マッチングの時代に戻すことなんてもうできない。
僕が願うことは、恋愛を成立させるためのテクノロジーや環境の進化が、人間の自然な感情にもっと寄り添うような形であって欲しいという、ただその一点だけだ。

今のはてなに思うこと

はてなでブログをやっていてよく耳にするのは、 「はてなブログは他のユーザーとつながる仕組みが強い」というユーザーからの声だ。

たしかにアメブロライブドアブログなど、他のブログサービスでは、とりあえず書く場所だけ提供するから、あとは勝手にやってねーという投げっぱなし感が強い。
そこで終わりにするのではなく、そこからどうやってユーザーに楽しんで使っていってもらうかっていうことを考えた時に、やはりユーザー同士をどうやってうまくつなげていくかというところが課題になってくると思うし、はてなのサービスは全体的にそういうところまで見越した上で設計されているように思う。

 


そこであらためて、はてなブログの機能を振り返ってみたのだが、一言で言うと「ゆるいつながり」というのがキーワードになっているように思う。
なんというか、がむしゃらに何が何でもユーザー同士をつなげていこうとしているような感じはしなくて、あくまでもゆるーく、わずかに袖が触れ合うような感じで他のユーザーと交流させようとしているような気がするのだ。
スターやブクマ機能を使っていても、がっつりと誰かと何かについて語り合うみたいな雰囲気には決してならない。
僕としては、ちょっとそのあたりが物足りないなーと時々感じてしまうことがある。
「グループ機能」というものが提供されているが、これなんかは、興味属性が一致するユーザー同士を結びつけるのにとてもいい機能だと思うのに、これを使っている人ってあまりいないのではないだろうか。インターフェースがなんとなくわかりづらいし、機能としてもいまいちだ。
この「グループ機能」をさらに発展させることで、ユーザーごとの興味属性を明確にして、このユーザーとこのユーザーをくっつけると面白い化学変化が起こりそうだなっていうことをシステム側で予測してマッチングするように仕向けるとか、ひらたく言うとレコメンド機能を充実させて欲しいものだ。
自分から能動的に気の合う人を探そうとしなくても、自然と周りにわらわらとそういう人達が集まってくるような、それをシステムで実装しようとするのはきっと難しいんだろうけど、まったくできないことでもないような気がするのだ。

 


まあこんなことをここで書いていても、運営には届かないんだろうけど、今これを書いていてもうひとつ残念に思うのは、最近のはてなには、サービスを改善する仕組みがなくなってしまっているのではないかということだ。
昔はもっとユーザーの声を吸い上げる仕組みがあったような気がする。もう思い出せないほど遠い昔のことだけど、はてなポイントを使った株式投資風の何らかの仕組みが存在していた記憶がある。「変な会社の作り方」という著書の中で近藤さんが「うちはこれこれこういう風にしてユーザーからのニーズに対応しています。」と、ドヤ顔で言っていたのを確かに覚えている。
あの頃とは違って、今のはてなは上場企業になっているし、これからはBtoBでがっつり売上伸ばしていきますというスタンスに変化してしまっているのかもしれない。でも、大昔から使っているユーザーの中には、こんなことを考えている人もいるんだよっていうことを、たまには思い出して目を向けて欲しいなと思う。
なんならはてなの株でも買ってみようかな。株主の意見なら聞いてもらえるのだろうか。

他人の日記を覗き見る時の背徳感

今年の春頃から、はてなブログの購読機能をよく使うようになった。

ネットをふらふらと徘徊していて、ちょっと気になるはてなブログを見つけたら、あまり深く考えずに「読者になる」ボタンを押して登録してしまう。この半年ほどで、100ブログほどは登録しているような気がする。
一度登録したブログはその後、更新があがってくる度に必ず読むようにしている。
特定のブログを定期的に読み続けるのは、ホッテントリに上がってくるようなパンチの効いたエントリーを単発で読むのとはまた違った感触があって、これはこれで味わい深いものだ。ブログというものを「点」ではなくて「面」で捉えているとでも言えばよいのだろうか。
とにかく、そういう習慣がこの半年ほどですっかりと身についてしまった。

 

 

それだけ多くのブログに毎日目を通していると、時々ふと自分の悪趣味な内面に気づいてしまうことがある。
僕は、人間の心の闇の部分、内面の奥深くを余すところなくさらけだしているようなブログが好きで、例えば有名なものだと、はしごたんのブログがそんな感じだ。彼女の文章には、好むと好まざるとに関わらず、否応なしに人の心を引きずり込んでしまうようななにかがあって、いつもダークなエントリーがアップされる度に身悶えしてしまう。

 

 

他にも、別に有名なブログではなくても、惹かれているものがいくつかある。
なかでも僕のお気に入りは、20代の普通の会社員の女性が書いている婚活ブログだ。婚活ブログと称してはいるが、その内容は、最近別れた恋人へ憎悪のこもった呪詛の言葉をひたすらつぶやきつづけるという恐ろしいものだ。こういうブログと出会った時、僕はいつも村崎百郎の「情念ノート」を思い出す。他人への怨念が満ち溢れたエントリーを日々連発してくれる、悪意に満ち溢れたこのブログは、読む度に深淵を覗き込んでしまったかのような深い感慨を得ることができるのだ。
このブログを見つけてからというもの、僕は密かにじっとその更新を眺めていたのだが、二ヶ月ほど前のある日、どうしても我慢できなくなって彼女のブログにブクマコメントを入れてしまった。するとその日から、更新がピタリと止まってしまったのだった。
これは全くの憶測だが、どうやらそれまでの彼女は、自分のエントリーが見ず知らずの他人から「見られている」という感覚が非常に薄かったのではないだろうか。
そこに僕がブクマコメントをぶつけてしまったことで、がっつりと「見られている」という意識が彼女の心のなかに芽生えて、それが原因で何も書けなくなってしまったのではないだろうか。
もしそうだとすれば、僕は彼女から、自分の心の闇をさらけだす自由を奪い取ってしまったことになる。
とても申し訳なく、残念なことをしてしまったように思う。

 

 

他にも、お気に入りのマイナーブロガーがいる。
プロフィールを見ると、個人事業主となっているのだが、実際は一人暮らしニートの20代男性のブログがある。日々やることもなく、自分の思考や思想をひたすら書き連ねているのだが、誰かに批判されたりすることがないのでまるで王様気取りなのだ。肥大してしまった自己意識から発せられる言葉に耳を傾けていると、だんだんと痛々しくなってくる。
もしかすると、これもあまり人から見られているという感覚がないのかもしれない。うかつにコメントしたりしないように注意しなければいけないと思う。

 

 

要するに僕は、他人の日記を覗き見ている時の、あの何とも言えない背徳感を擬似的に味わいたいのかもしれない。
やっていることは、世間的にも何も問題のない行為だが、時々とても悪趣味なことをしているような気にさせられる。
けれど、そういうマイナーでダークなブログを探して読み続けることが、今の僕にはやめられないのだ。

インターネットと死体と酒鬼薔薇

インターネットが一般家庭で自由に使われ始めた頃、僕も興味が湧いたので、自宅の電話回線を使ってネット接続をしてみることにした。

ネットに繋ぎはじめた最初のうちは、そこで何をやっていいのか全くわからなかったので、ヤフーのトップページから検索して辿り着いた個人ホームページなんかを見て満足していた。
やがてだんだんそれが物足りなくなってきて、いわゆるアングラ的なものを好んでよく見るようになっていった。
主に海外サイトが多かったが、爆弾の作り方が解説されたサイトや、死体写真が掲載されているサイトなんかを中心に、よく巡回していた記憶がある。

 

 

やがて、自分でも何かホームページ的なものを作って公開してみたくなってきて、見よう見まねでHTMLをいじりながら作ってみた。
当時は、自分の日常を日記という形式で公開する人が多かった。今でいうブログやSNSと同じ感覚だろう。
僕の場合は、ただ単に自分の私生活を公開するだけでは面白くないなーと思ったので、全くの創作で日記を書いてみることにした。それと海外サイトから拾ってきた死体写真を組み合わせて、「変態日記」と題して公開してみたのだ。
具体的にどういう日記かというと、「きょう、みちばたをさんぽしていると、おじさんがたおれているのをもくげきしました。」という子供が書いたような文の「おじさんがたおれている」の箇所にリンクを貼っておいて、そのリンク先に男性の死体写真を置いておくという、ちょっとドッキリ的な仕掛けを施しておいたのだ。「子供が書いた日記」という、のほほーんとした雰囲気と、死体写真のグロテスクさのギャップで笑いを取ろうとしていたんだと思う。 いわゆる「ブラックなお笑い系のサイト」を目指していたわけだ。
これは、その手のブラックユーモアを理解できる層にかなりウケがよくて、「いつも更新楽しみにしてます!」とか、「頭おかしいですねあなた」とか、そういったファンレター的なものをメールでもらったりすることが増えてきてだんだん楽しくなってきた。

 

 

そんなことをやっていた時に、あの事件が起こった。
小学生の児童が殺害され、その死体の一部が学校の校門に置かれるという、常軌を逸した陰惨な事件に、世間は衝撃を受けた。
そして僕はというと、早速この事件をネタにしたコンテンツを作成してホームページにアップしたのだ。
「きょうは、がっこうで『なんきんだいぎゃくさつ』についてべんきょうしました。」「ぼくぐらいの年のこどもが、たくさんころされていました。」「とうじは首をきりおとすのがはやっていたようです。」という文章と共に、南京大虐殺の時の死体写真をネットから拾い集めてきて大量にアップした。
僕としては、子供を殺してその首を切り落とすという、非常に残虐な行為が、戦争という時代背景を持つことで正当化されるという、歴史の矛盾を指摘したかったのだ。
今世間が大騒ぎしているようなことも、時代によってずいぶん受けとめられ方が異なってしまうというところを突いて、うまく笑いにつなげていけるのではないかという、僕なりの計算がそこにはあった。

 

 

けれどもこれを公開した翌日に、早速プロバイダから苦情のメールがきた。曰く、「あなたのやっていることは公序良俗に反しており、社内外から批判が殺到しているので、このコンテンツは削除してほしい」と。「もし削除しない場合はホームページの利用自体を停止しますよ」と。
仕方がないのでそのコンテンツは削除した。なんか世の中って面白くないなーと感じながら。表現の自由?なにそれうまいの?
けれども、このことをきっかけにして注目を浴びた僕は、ネット上の知り合いが一気に増えることになった。そしてそこから、世間一般の人々には理解されにくい僕なりの「笑いのセンス」を理解してくれる仲間の存在を感じて、安堵したのを憶えている。
その後も、神戸の事件とからんで、新聞記者だと名のる人物から僕に対して取材の申し込みが来たり、加害者の顔写真がWebやメールで出回ったりと、インターネットの持つすさまじい影響力の片鱗を感じ始めたのもこの頃からだった。

 

 

あれから随分と経ったいま、神戸の事件の加害者が手記を出版したり、Webサイトを公開したりということが起こったり、それに対する世間からの批判もあったりしたことを思い出し、そこにぼんやりと昔の自分の姿を重ねてしまった。
表現の自由?なにそれうまいの?

 

 

関連記事

sakamoto2.hateblo.jp

僕のトラウマ映画を紹介する

まだ高校生の頃だったか、深夜に自主制作の短編映画ばかり流す特番をテレビでやっていて、インディーズムービーならではの手作り感や怪しげなノリが大好きな僕は、当時熱心にそれらを観ていた。

その特番の中で、グランプリを取った作品があるのだが、僕は初めてその作品を観終えた時、精神的に完全に打ちのめされてしまって、2~3日放心状態になってしまったことがある。
いまだにあの時の衝撃というのはよく覚えていて、それ以来、その作品にまた触れることができたらいいなと思い続けていたのだが、最近YouTubeで何気なくタイトル検索してみたら、まさにその動画をアップロードしている人がいたのでびっくりした。
こういうことがたまに起こるから、ネットのある時代に生まれてきてよかったと思う。
もう二度と観れないと思っていたので感動しながら、四半世紀ぶりに観てみた。

 

 

この映画は、街中にいる行きずりの男を騙してその日暮らしを送る若い女性と、パントマイム芸人の青年の間に生まれた純愛を描いたものだ。
きれいなクラシック音楽をBGMにして、モノクロの映像が静かに淡々と続いていく。
物語序盤から中盤にかけては、お洒落な感じだったり、ちょっとコミカルだったりと、どことなくウォン・カーウァイの映画に似た雰囲気だ。
で、油断していると終盤付近で、ものすごく残酷なツイストが入り、そのまま鬱エンドへ。
都会とか大人とか、そういう世界が抱えているダークな部分がそれとなく描かれていて、そういう負の領域から二人のピュアな気持ちは常に脅かされていて、観ていてとても苦しくなる。
静かで心地よい音楽をBGMに、残酷な描写が流れたりすることや、最後に即物的なあの「手」のイメージを見せることで、観ている我々は頭を強く殴られたような衝撃を受けてしまう。そういうふうに、音楽と映像の進行が緻密に計算されているのだ。

 

 

こんなものをよく高校生の時に観ていたなと思う。

エロとかグロとか、そういう次元ではなくて、もっと残酷ななにかがむきだしの状態で描かれていて、そういう得体の知れないものにまったく耐性のない年頃の少年がこれを観ていたのだ。
当時の僕はこの作品を観て、映像というものが人間に対してここまでショックを与えることができるのだと、その可能性に驚いたし、これからもこういった怪しげな作品をウォッチし続けることになるのだろうなと思った。
そういう意味でこの短編映画は、いわば自分の性癖に目覚めるきっかけを作ってくれた作品として、思い出深いものになっている。

 

 


『ダイヤモンドの月』

僕が格安SIMを使わない理由

スマホを機種変更した。2年間使ったiPhone6からiPhone7へと。

キャリアはauなのだが、同じ機種を2年以上使っていると、そのままずっと使い続けるよりも、機種変更した方が毎月の料金が安くなるのだ。
なんでそんなことになるのかよくわからないのだが、ケータイショップの店員さんから複雑怪奇な料金プランについて長々と説明を受け、確かに機種変更した方が少し安くなることを確認した。
とはいうものの、それでも毎月6千円ほどはかかる計算になっていた。
最近の格安SIMのことを考えると、この値段は決して安いとはいえないだろう。
格安SIMだと、音声通話込みで毎月2千円といったところだろうか。差額の4千円は結構大きいなと思ってしまう。
が、僕の性格からして、格安SIMにしてしまうと、何年もの間ずーっと同じ機種を使い続けることになってしまうだろう。それもどうかと思ってしまうのだ。

 

 

今回iPhone6からiPhone7に変えてみて感じたことは、やはり「最新機種はいいぞ」ということだった。
たしかに機種変更の前後で画面解像度などの目立ったスペックが変わるわけでもないし、僕の場合はおサイフケータイや防水機能にもメリットはあまり感じていない。
それでも、実際に新機種を触っていると、細かなところで以前には感じられなかった心地よさを感じている自分に気がつく。
指紋認証の速度が上がっていたり、ボタンのクリック感など、ほんのちょっとしたところなのだが、今までストレスに感じていた点が解消されているのだ。
見た目はいままでと同じでも、手にとっていじくり回していると、これは全く別物だなと感じさせられる。
やはり最新のOSは最新のデバイスでこそ真価を発揮するものなのだ。

 

 

そんなわけで、僕の場合は2年ごとに新機種に更新していくという、キャリアに仕組まれたサイクルが調度よいのではないかと思っている。
差額の4千円は端末代だと考えれば、格安SIMを使う場合とそんなにコストに差はないと考えることもできる。
それに、キャリアメールでしか連絡が取れない一部の知人がいることや、同一キャリア同士の通話が無料になるというメリットがあったりもするので、そういう点からも、今のキャリアから離れることは、ちょっと考えられない。

 

 

そもそもスマホは、外出時には肌身離さず身につけているものだし、何かにつけては取り出してにらめっこしているので、言うなればそれはもう僕にとって体の一部のような存在になっている。
そこまで重要な存在となっているスマホに対しては、お金をケチるべきではなく、むしろ積極的に投資していくポイントだろう。

それが、僕が格安SIMを使わない理由だ。