坂本から君へ

さかもとのブログ。自分語りとか世間話とか。大阪にいる。

アンドロイドは機械通訳の夢を見るか?

グーグルの翻訳サイトがすごいらしい。

僕の知り合いで、バイリンガルの日本人がいるのだが、彼が自分のブログでそう言っていた。

彼は最近、グーグル翻訳の精度が以前と比べて格段に上がったという発表を聞いて、サイトにアクセスして何の気なしに次の文章を翻訳させてみたという。

 

『つい先日のことですが、グーグル翻訳の精度が大きく改善されました。試してみてちょっと驚きましたよ。』

 

結果はこうだ。

 

"Just the other day, the accuracy of Google translation has been greatly improved. I was a little surprised when I tried it."

 

彼曰く、この翻訳は完璧らしい。

 

「ですが」を"but"と訳していない点や、現在完了を使っていること。
"a little"の位置や、前後の脈絡から"the"を入れる難しい判断をやってのけている点。
「私」と書いてないのに"I"を主語にしていること。
「試してみて」を後ろから"when I tried it"と自然に後置修飾している点。

 

などなど、この翻訳が素晴らしいと思った点について列挙していた。
これは、僕のような英語を苦手とする人間には決して感じとることのできないポイントだろう。
バイリンガルの人だからこそ、その翻訳精度の高さに思わず舌を巻いてしまうのだ。

機械翻訳の性能がそのレベルまできているのなら、そのうち同時通訳でもこのくらいのレベルのことができるようになるのではないかと考えさせられてしまう。

 

 

ふと、知り合いで通訳の仕事をしている人がいたことを思い出した。
その人とは一時期、一緒に仕事をしていたことがあるのだが、その時に、通訳という仕事についてあれこれ面白い話を聞かせてもらったことを覚えている。
彼が同時通訳をしている時には、自分の声のトーンや、声が流れる方向にとても気を遣っているそうだ。
例えば、話し手が高い声の人なら、それを通訳する自分は低い声で話すことで、聞き手にとって聞き取りやすい状況が作り出せるという。
そして、話し手の話している方向とは、逆の方向から自分の声が流れていくように、常に自分の立ち位置に気を配っているらしい。
また、通訳している話の内容から文脈を読み取り、なにか重要なことを言っていると判断した時には、そこだけゆっくりとイントネーションを変化させながら話したり、とにかくリアルタイムに色んなことに気を配りながら、おもてなしの精神でやっているらしい。
ただ単に、耳から入ってきた言葉を翻訳して口から出しているわけではないのだ。そこには、言葉を伝えるための自分なりの創意工夫がふんだんに盛り込まれている。
そんな調子なので、通訳の仕事をしている間はものすごく精神がすりきれると、その人は言っていた。
なので、国際会議などの誤訳が許されないシビアな環境では、3人位の通訳者が交互に10分ずつ交代しながらやるらしい。そのくらい、気を遣いすぎて神経をすり減らしてしまうような仕事なのだ。


「けど、人と人をつなげる仕事なので、とてもやりがいがあります。」

 

いい表情をしながらそう話す彼の姿を間近で見ていて、ああこれはいい仕事だなと思った。

 

 

そういうことを知っているだけに、コンピューターがはたしてそのレベルにまで達することができるのだろうかという点については、ものすごく気になる。
入出力のインターフェースや、内部のAI処理など、これから進化させていく方向性はいくらでもあるだろう。
もし機械通訳の技術がそこまで到達することができたのなら、英語を不得手とする人間にとって、グローバルに活躍できる場所がこれから飛躍的に増えていきそうで、楽しみな感じがする。

冥福を祈る気にもなれない

20代の前半から、僕はシステムエンジニアの仕事をずっとやっている。でも、その間およそ20年間を、ずっとSEひとすじでやっていた訳ではなく、ちょいちょい他の仕事に浮気しながらこれまでやってきた。

SEの仕事は基本的に、お客さんの会社に入っているIT周りのシステムをあれこれ弄り回すことだ。それはどちらかというと、他人の仕事を裏側からサポートするような、裏方さん的なスタイルの業務にどうしてもなってしまう。
僕はそのあたりがなんか物足りないなと長年感じ続けていて、ある時、自前で商売をやっている、いわゆる事業会社への転職を決意する。
ちょうど運良く、とあるBtoCの店舗型事業を全国展開している会社に転職が決まり、さあやるぞーという感じで意気込んで働き始めた。
なにをどうすれば会社が儲かるのか、それを常に考え、企画し実行する。いままでと頭と体の使いどころが全く違う業務にとまどいを感じながらも、しばらくは充実した会社生活を送ることができた。

 

 

その会社に、僕より年齢が4つ上のベテラン社員がいた。
過去に証券会社での営業経験があるらしく、なるほどそれ系のニオイがぷんぷん漂ってくる人だった。いわゆる昭和のモーレツ社員といえばよいのだろうか。10連勤や20連勤は当たり前で、毎晩浴びるように酒を飲み、バカバカ煙草を吸い、トイレで吐いては会議室でこっそり横になる。ストレスと不摂生にまみれた、そんな仕事スタイルの人だった。

 

「上司から『できるか? 』 と尋ねられたら、必ず『できます !』 と返事するんや。できるかどうかは後から悩んだらええねん。」

 

そんな風にうそぶく彼は、会社的にはとても優秀な人材だったと思う。
たとえそこが自分の限界を超えた領域であっても、がむしゃらに飛び込んで行って、もがきながらそれなりの成果を出してきた人だった。
彼を見ていると、僕も将来的にはこういうタイプの人材になることを会社から期待されているのだろうと思わされてしまい、暗澹たる気持ちになったものだ。
決して彼のことを尊敬していたわけでもないし、目標にしていたわけでもない。ただ、彼を見ていると辛くて苦しかった。
SE時代には、上司から無茶振りされても、できないことはできないとはっきりと断ることが美徳だとされていた。自分のキャパシティを自覚して、それを超えないようにきちんと業務量を調整できる人が、優秀なSEだと教えられてきたし、また何度もそれを痛感させられてきた。
その教えとは真逆である彼のスタイルや、にもかかわらずに強引に成果を出し続ける彼の姿に、常に違和感を感じ続けていた。
僕は2年ほどその会社に勤めていたが、やはり精神的にも体力的にもついていけなくなり、退職して再びSEの道に戻ることを選んだ。
なのでその後は、彼のことはすっかり忘れてしまっていた。

 

 

そんな彼が先月、急性心不全で亡くなった。まだ40代の後半だった。
奥さんと、小さなお子さんが3人いるという。
いたたまれない気持ちと共に、やはりそうなってしまうのかという既視感にも似た気持ちが押し寄せてきた。
あの仕事スタイルでは、いずれはそうなってしまうことは誰の目から見てもあきらかだったのに、当人も周囲の人間も誰もストップをかけずに全力疾走し続けて、その結果がこれだ。
ほんの少しでいいから、困難に立ち向かわずに、恐れて逃げ出すことを考えて欲しかった。
全力で逃げて、そして生きてさえいれば、家族と共に支え合って生きる手立ては、いくらでもあったのに。


そう思うとやりきれない。
冥福を祈る気にもなれない。

飲み会より勉強会

僕は一時、介護関係の仕事に興味を持っていた時期があって、そっち関係の専門学校に通っていたことがある。

その時の僕は30代だったのだが、通っていた学校の同じクラスの人達は、20代から60代までの幅広い年齢層の人たちが集まっていた。さらに、その人達がそれまでに携わっていた職業はかなり多岐にわたっていて、そういう意味ではいろんな経験や考え方を持った人達と接することのできる、とても貴重な機会だったように思う。
そのクラスに通っていた期間は、わずかに三ヶ月ほどだったのだが、その間は他の生徒さん達と一緒に切磋琢磨しながら、 ヘルパー資格取得に向けて努力していた。
通っている間は、「学校ってこんなに楽しいところだったんだな」という気持ちが常に心の中を占めていたし、「学ぶってこんなに素晴らしいことだったんだ」ということを身をもって感じさせられた。
現役の学生時代の頃には、そんなこと感じたこともなかったのに、歳を取ることによって、物事の捉え方や考え方ってずいぶん変化するものなんだなと思い知らされた。

 

 

さて、そのクラスが終了した後も、自発的に同窓会的なコミュニティが生まれて、たまに小規模な飲み会が開かれるようになっていた。
僕も当初は、よくこういった飲み会に参加したり、あるいは自分が飲み会の幹事をやったりもしていたのだが、なんとなくだんだんと足が遠ざかり、最近では全く参加しなくなってしまった。
その原因のひとつは、今の僕の職業がシステムエンジニアであり、他の介護士として働いている人たちとうまく話が噛み合わなくなってきてしまったということが挙げられる。
うまくいえないが、やはり少し彼らとは距離を感じるというか、大勢でワイワイ話していても、どこか僕一人だけ輪の外にいるかのような孤独感を感じてしまうことが多く、そのせいで足が遠ざかってしまったのだ。

 

 

いっそのこと、飲み会ではなく、勉強会的なことをやってみればいいのになと思うことがある。
勉強会というからには、各人が発表したいテーマを持ち寄って、それに関するプレゼンを行い、それを観ている人達と議論し合うとか、そんな感じになるのだろう。
例えば、普段自分が携わっている介護現場で、このような出来事があって、それに対してこういうふうに対応して解決したっていう事例を紹介したりしてもいいだろう。
もっと実践的な内容にして、介護事業者として独立する為の手続きごとについてだとか、もっと社会的なものなら、介護ロボットや外国人介護士についての話題に触れてみてもいいだろう。
議論できそうな話題はいくらでもある。
なにも難しそうな顔をして真面目に話し合わなくてもいい。お酒でも飲みながら気楽に話し合えるような場所があればいいだけだ。

そしてそういう場所なら、介護に関して門外漢である僕でも疎外感を感じずに参加できるような気がするのだ。

 

 

あの頃、学校に通って介護の勉強をしていた頃、せっかくみんなで協力しあいながら勉強してきたのに、その熱量を活かして、継続してお互いを高め合うっていうことができてもよさそうなものなのに、そういうことをせずに、ただみんなで集まって管を巻いているだけっていうのももったいないなと思ってしまうのである。
じゃあお前が企画してやれよと言われてしまいそうだが、 そんなことをいくら僕が企画しても、ついてきてくれそうな人が誰一人としていないことが問題なのだ。
これがIT系の勉強会だと、意識の高い人が多くて、誰もが前に出てがんがんプレゼンしたがるのだが、介護の世界では、あまりそういうことを前に出てやりたがる人が少ないのだ。
IT系勉強会のアツいノリを、介護の世界に持ち込んで、みんなでなにかできたらなと、そんなことを夢想しながら僕は、次の飲み会の案内に欠席のメールを入れるのであった。

恋をしている

友達と2年ぶりに会うことになった。

その友達は、僕と同じ歳の女性なのだが、僕と生き方のペースがとてもよく似ている。
もし仮に世界中の人々を100種類くらいにカテゴライズするとしたら、僕と彼女は、間違いなく同一のカテゴリに属することになるだろう。
そのくらいの、ちょうどいい感じの親近感をお互いに感じあっているような、そんな間柄だ。
いままでも、ちょくちょく会ってご飯したりはしていたのだが、ここ最近は彼女の心の調子がよくなかったことやら、僕自身の私生活が不安定だったことなどが重なり、もうずいぶんと長いこと会っていなかった。

 

 

その日、まずは彼女が行ってみたいと言い出したチョコレートカフェに入ることにして、入り口の行列でずいぶん並んだ。待っている間に気を失いそうになる彼女を励ましながら、僕達はなんとか店内に分け入ることができた。ケーキやワッフルやアイスの上に、お上品にかけられたチョコレートは、ほどよい甘さでとてもおいしかった。
その後もお互い時間があったので、近くにあった商業施設でいろいろな展示物をみたり、楽器店や民族洋品店を冷やかしたり、ボルダリングをやっている人たちをぼんやりと眺めたりしてすごした。

 

 

こんなふうに二人で目的もなくぶらぶらするのは始めてのことだなと思いながら、なんかちょっとこれって、気になる人とデートしてるみたいな気がしてきて、だんだん楽しくなってきた。
まだ付き合っているわけではないけれども、これから付き合おうかどうか迷いながらお互い様子見しているような段階で、でもなんだかやっぱりこの人いいなーと思い始めていて、だんだんと気持ちに弾みがついていきそうな感じ。
この感じは、とても懐かしい。もうすっかり忘れていた感情で、ずいぶんと久しぶりだなと思った。

 

 

このまま彼女と恋に落ちることがもしあったとしても、それはできない。
でも胸がじんわりほんわかしてくるこの感じだけは、いくつになっても僕の心のなかに、そっとひそやかに残しておきたい。そう思っていた。

禍々しいものに惹かれてしまう

セルビアン・フィルム』とか『マーターズ』とか『ムカデ人間』とか、そういう禍々しい雰囲気につつまれた映画が好きだ。

 

 

僕は子供の頃からホラー映画が好きで、人が残酷なかたちで殺されたりする場面が続くような映画を、よくたて続けに観ては喜んでいた。
昔のホラー映画は、「13日の金曜日」とか「悪魔のいけにえ」とか、非常にわかりやすくパターン化されたものが多かったように感じるが、歳をとるにつれて、どんどんストーリーは不条理なものになり、残虐描写はさらに過激化しているように感じる。
観る側も、「なるほどこんどはそうきたかー」と感心しながら、さらに刺激の強い、過激で陰惨な映像を求めるようになってしまう。
そういうことを誰かに話すと、必ず眉をひそめられてしまうのだが、こういった残虐描写のきつい、誰が観ても目を背けたくなるような映像に対して、どうして自分がこんなにも惹きつけられてしまうのだろうか。

 

 

例えば、『セルビアン・フィルム』には、劇場公開時に規制が入りカットされてしまったシーンを加えたUNRATED版というものがあるのだが、劇場公開版とこのUNRATED版を見比べていると、なんとなくおぼろげながらその疑問に対する答えが見えてくる。
作品内の一番コアな箇所で、最もゴア表現のきつい場面があり、その部分には、劇場公開版ではカットされている数秒程度のわずかなシーンがあって、それはほんの些細な役者の動作を映した部分なのだが、明らかに「人間」を「モノ」のように扱っている動作が描写されていて、「ああ、ここまでやってしまうと完全にアウトなのか!」ということに気付かされる。
そこには、人間に生まれつき備わっている理性だとか、モラルだとか、そういったもののボーダーラインが明確に浮かび上がっていて、普段は意識せずに埋もれてしまっているそれらのものが、一挙にあらわになる瞬間に、僕はカタルシスを感じているのだった。

 

 

冒頭に挙げた作品は、一見、過激で残酷なだけの映画だと評されてしまっているきらいがあるが、僕的にはそうではなくて、もっと深い、人間の抱えている基本的な条件みたいなものを、いちばんわかりやすいかたちで描写しているような気がするのだ。

だからこそ、目をそらすことができない。
誰もが目を背けてしまう場面であっても、僕はひたすら凝視しつづける。

 

 

セルビアン・フィルム 完全版 [DVD]

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友達は休んでもいい

最近読んだマンガで、「やめてみた」というコミックエッセイがある。

主人公の女性が、「身の回りのいろんなことをやめてみることでスッキリお悩み解決!」ということで、よくある断捨離系のお話なのかなと、あまり期待せずに読んでいたら、思わずはっとさせられる話題がでてきた。

 

 

日頃の友達付き合いについて主人公が悩んでいる場面が出てくるのだが、友人のちょっとした行動が不満で、なんだかもやもやするなーとぼやいていたところ、主人公の旦那さんが、「じゃあその友達とのお付き合いをしばらくお休みしてみたら?」というふうに提案するのである。
この旦那さんも、学生時代は仲のよかった友達が、お互い社会人になって環境が変わったことでだんだんとぎくしゃくするようになり、思い切って交友関係を断ってみたら、すっきりしてお互い楽になったと言う話を打ち明ける。ところが、その友達と最近になって偶然再会することがあり、一緒に飲みに行ってみると、また昔のように話がよく噛みあうようになっていて、それからまた関係が復活したそうだ。
この話をした旦那さんは主人公に対して、「友達関係をお休みするのって、そんなに悪いことじゃないと思うんだけどなー」と、その行為を肯定して、おすすめするのだ。

 

 

僕もその話を読んでいて、そういえば、いつの頃からか話題がなんとなく咬み合わなくなってきて、一緒にいても全然楽しくない友達っているよなーということを思い出した。でも、そういう友達とも無理して付き合っていたりする自分のことも合わせて思い出す。
惰性なんだか義理なんだか、よくわからない感情に引きずられるようにしてずるずるといつまでも。でも、そういうのって、とてもしんどい。
そういう関係は、「断つ」わけではなく、しばらく「お休みする」と考えて、距離を置くようにすればよいのだ。
友人関係を「断つ」となると、ケンカ別れしたような、ネガティブな意味合いが伴うけど、そうではなくて、お互いのことを思い合って、しばらく精神的に距離を置いて離れてみるという選択肢をとることもできるのだ。
友達って、無理にずっと続けている必要はない。たまには休んだりしてもいいし、復旧してもいいし、そのタイミングは自由なのだ。
そのことに気づかせてくれたので、このマンガを読んでよかったと思った。

 

 

 

電子書籍はいつ買えばいいんだろう問題

紙の本を買わなくなった。

 

 

自室の本棚から本が溢れ出し、まるで高層ビル群のように床に積み上がった本の束を見上げるたびに、「もう二度と紙の本は買わない」という決意を固くさせられる。
そんなこんなでここ2~3年ほどは、よほどのことがない限り電子書籍を買うようにしている。

 

 

そこで浮上するのが、タイトルに掲げた「電子書籍はいつ買えばいいんだろう問題」である。
電子書籍って、結構頻繁にセールをやっているので、一体いつ買えば一番オトクなのかが非常にわかりづらくなっていて、結局いつまでたっても買わないことが多いのだ。
例えば、読みたい小説を見つけても、それが角川から出ていたりすると、次の角川半額セールまで買うのを待っておこうという気になってしまい、そしていざセールが始まっても、お目当ての小説は割引対象外になっていたりして、なんか悔しいので結局買わずに、そのうちその小説の存在自体を失念してしまうという機会損失が起こってしまう。
電子書籍が普及していなかった時代には、こんなことは起こらなかったのにと思うと、なんだかとてももったいないことをしているような気がする。
その背景には、電子書籍を売る側にも買う側にも、「所詮はデータだ」という気持ちがあるように思う。
書籍といっても所詮はデータなので、売る側は定期的に半額セールなどの大幅値引きをやることで客寄せしやすいし、その結果、買う側にも、紙の本と同じ値段で買うなんてばかげているという意識が植え付けられてしまうのだ。
そんなこと深く気にせずに、読みたい本が現れたタイミングで買えばいいのだが、なんか気になってしまうのである。
自分でもせこいとは思うのだが、なかなか定価で買うことができない。

 

 

いまこれを書いていて思いついたのだが、同じような問題に、「Netflixにはいつ加入すればいいんだろう問題」がある。
Netflixは入会して最初の一ヶ月は無料なのだが、一ヶ月もあると観たかったドラマや映画はあらかた観尽くしてしまい、観るものがない状態になってしまう。で、そこで退会してしまうと、料金が全く発生せずに終了する。
そしてそれから一年くらいたつとNetflixから「もう一度、一ヶ月の無料体験をしませんか?」という案内がくるので、ちょっと覗いてみるかーと、再入会することになる。ただ、また一ヶ月もあると、自分の興味のあるコンテンツは大体観尽くしてしまうので、やっぱり退会して料金が発生しない。
これいつまでたっても課金されないような気がしてきて、心配になってしまう。
自分でもせこいとは思うのだが、なかなか課金することができない。